図書館から借りて返して、また借りる。そうした合間のタイミングがずれて、本が途切れてしまうことがある。借りた本を返しに行って、図書館の開架の中から次の本を選ぶのならそんなことは起きないのだが、札幌はインターネットで全市の図書館の蔵書を予約でき、近くの図書室まで配達してもらうことができるのでそうしたシステムを利用している。そんなとき借りた本の返済期限と新しく予約した本の配達とにタイムラグが起きることがある。つまり、返却日は今日なのに予約した本の到着が遅れている・・・、そんなことが起きてしまうのである。

 蒲団に入ってから、通勤電車に揺られながら、そして事務所で・・・、本を読む機会は多いのに本のない空白が突然発生する。時には本など読まない日があってもいいではないかと思わないではないけれど、読書も習慣になってしまうと空白の時間と言うのはどうも落ち着かないものである。そんな時は自宅の書棚を探ることになる。予約した本に関する図書館のネット情報を確認すると「回送中」とあるから、どうせあと一日か二日の短い待ち時間だから軽め薄めの一冊にしよう。

 目についたのが「ゲーテ格言集」(高橋健二訳、新潮文庫、昭和31年11刷)だった。裏表紙に「1956年5月15日 夕張市鹿ノ谷 堀江書店 佐々木利夫」と書いてある。私の悪筆はこの頃からのものらしく下手くそな字である。因みに定価は「70円」である。日付は買った日だろうから、1940年生まれの私の16歳の時である。高校の一年生であり、この書店は片道小一時間はかかるだろう通学路のほぼ中間点にあったことを記憶している。

 夕張は当時石炭の町として栄えていたから、通学にはバスもあったし国鉄・私鉄を利用することもできた。しかし5人兄弟の長男の身で、中学卒業で就職する仲間も多かったこの時代に、高校へ通うという選択肢を選んだ身には、高価な運賃のバスを利用する通学などは贅沢だった。嵐の時などに自分の小遣いで数回乗った記憶はあるけれど、学生生活のほとんどを私は歩いて通学した。

 二宮尊徳の銅像のように、歩きながら本を読んだような記憶はないけれど、この本は自分の小遣いでやっと買うことの出来た一冊だったのだろう。もちろん、買った記憶も、読んだ記憶も、ましてやそこから人生の啓示を受けたような記憶も今となってはまるでない。それでも読んだ痕跡が、この本のところどころに赤鉛筆の跡や稚拙な書き込みで残されている。高校生の私が、この本から感じたであろういくつかの痕跡を拾って見ることにしよう。

 ふたりのしもべを使っている主人は、よく世話をしてもらえない。家に女がふたりいたら、きれいに掃除ができないだろう(西東詩編「ことわざの書」から)P14

 最初に印がついているのはこの一文である。16歳の高校生は、この言葉の中に何を感じたのだろうか。「女」の意味についてだろうか、それとも「人生の目標を一つに絞りきれないことへの迷いの意味」だったのだろうか。

 人間こそ、人間にとって最も興味あるものであり、恐らくはまた人間だけが人間に興味を感じさせるものであろう(「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」第二巻第四章から)P20

 人間は、なんと知ることの早く、おこなうことの遅い生き物だろう!(「イタリア紀行」ナポリ、から)P20

 この二つの文章に何を感じたのか、まるで想像がつかない。ただ、どこか自分を少し高みに置いて、「人間」という存在を見下ろしているような、そんな哲学青年のふりをしたがっている高校生の青臭さを感じる。

 人類ですって、そんなものは抽象名詞です。昔から存在していたのは人間だけです。将来も存在するのは人間だけでしょう(ルーデンへ、1806年)P26

 それにもかかわらず高校生は、どこかで「人間であること」の意味を探ろうとしていたのだろうか。私には今でもまだ人類と人間の違いが分らないままのようだ。

 道理にかなったことをしようと心がけたことがないばかりに、全然あやまちを犯すことのない人がある(「格言と反省」から)P31

 意思と偽善について、私はどこまで理解していたのだろうか。過ちの多い人生を振り返って見て、この言葉が私を責める。過ちの少ない人生そのものが、もしかしたら大切な何かを忘れてきたことの証しなのだろうか。

 どんなに度々他人を誤解するかということを意識したら、だれも集会であまり多くを語らないだろう(「親和力」第二部第四章から)P34

 もし賢い人がまちがいをしないとしたら、愚か者は絶望するほかないだろう(「格言と反省」から)P35

 もしかしたらこの頃から私は、自分が凡庸であることに気づいていたのかも知れない。そしてそれは生涯を通じて変わることはなかった。だからと言って、そのことを特別卑下しているわけではないのだが・・・。

 君の胸から出たものでなければ、人の胸を胸にひきつけることは決してできない(「ファウスト」第一部544−5行)P36

 心をよみがえらす泉は自分の胸中からわいてこねば、心身をよみがえらすことはできない(「ファウスト」第一部568-9行)P36

 頭がすべてだと考えている人間の哀れさよ!(ヘルダーへ、1772年7月10日)P36

 言葉としては理解しているのだろう。ただその理解の程度はほんの上っ面でしかないだろうことが感じられる。高校生に、ここまでの人の心の理解など難しいと思うからである。

 薄いとは言ってもこの本は200ページもある。私の読んだ痕跡はまだまだ続いている。その全部をここに書き抜くことは意味がないかも知れないが、70数歳が16歳を懐かしんでいる、そんな思いをもう少し味わわせてもらおうか・・・。
                              「16歳の私のゲーテ(2.)」へ続きます。


                                     2013.9.12     佐々木利夫


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