書棚から引っ張り出した古めかしい本に、「ゲーテ格言集」(高橋健二訳 新潮文庫 定価70円)があった。引っ張り出したいきさつは前編「16歳の私のゲーテ(1)」を読んでもらうこととして、高校1年生の自分が触れたであろう思いを70数歳の老人はいま懐かしく思い出している。

 ・・・年をとるということが既に、新しい仕事につくことなのだ。・・・(「格言と反省」から)P41

 訳者が引用している文章はもっと長いのだが、私はこの部分に赤線を引いている。今ならこの赤線の意味が少しは分かるような気がするけれど、16歳の私が老いを理解していたとは思えない。それとも加齢もまた人の仕事の一つなのだと、私は本当に思っていたのだろうか。

 老人は人間の最大の人権の一つを失う。老人は対等なものからもはや批判されない(「格言と反省」から)P42

 ある年とった男が若い女を得ようと苦労するのを、人が悪く言った。「これが若返りの唯一の手段だ。そしてだれだって若返りを望むものだ」と、彼は答えた(「親和力」第二部第四章から)P43

 書いてあることの意味は分かる。だが、高校生がどんな意味をここから汲み取ってこの文章に赤い丸印をつけたのだろうか。

 人間の最大の値打ちは、人間が外界の事情にできるだけ左右されず、できるだけこれを左右するところにある。(「ウィルヘルム・マイスターの修業時代」第六巻、「美しい魂の告白」から)P43

 ・・・なぜなら、もし疑うことがなかったら、確実なことを知る喜びがどこにあろう?(「温順なクセーニエン」第一集から)P45

 こうした文章に幼い私は、人生や社会に自力で立ち向かっていけるとの、どこかに気負いに満ちた意気込みを感じたのだろうか。だとするなら、私はこうした意気込みを世俗の垢のなかに埋没させる人生を送ってきたことになるのかも知れない。その埋没を「妥協」だとか「信頼」、「協調」、「政治」などと言った、口当たりのいい言葉で糊塗しつつ・・・。

 「よく見ると、およそ哲学というものは、常識をわかりにくいことばで表わしたものに過ぎない」(「格言と反省」から)P51

 「言え、どうしたらスズメを追い払えるかを」と園丁が言った。「それに、毛虫や、さらにカブト虫の粟、モグラや、ノミトビヨロイ虫や、黄バチや、ウジ虫や、これら悪魔の子を?」−「そのままにしておけ。そうすれば、たがいに食いつくし合う」(「バキスの予言」から)P52

 空はどこに行っても青いということを知るために、世界をまわって見る必要はない(「格言と反省」から)P54

 哲学をまるで理解できず、しかも哲学青年のふりをしたい若者にとって、ゲーテという権威者の語る「分るようで分らない言葉」は、きっと大切な財産だったのではないだろうか。

 われわれ人間には、次第に進んで自然をうかがうことが、許され、恵まれている(エッカーマン「ゲーテとの対話」1831年7月15日、から)
P54

 なぜこの箇所に赤鉛筆で波線を引いてあるのか、その意味を私は今でも理解できないでいる。若く幼いペダンティックな青年は、ここに何を感じたのだろうか。57年を遡って聞いてみたいような気がする。

 最高なことは、一切の事実は既に理論であるということを理解することであろう。空の青い色は色学の原則をわれわれに示している。現象の背後にものを求めようとするな。現象そのものが学理なのだ(「格言と反省」から)P55

 ここにも、青臭い背伸びしている16歳を感じる。そのことはきっと本人にも分っていたことだろう。ただその背伸びもまた、少しでも分ろうとする努力の一つであったのかも知れない。自賛の自惚れになるかも知れないけれど、若者の背伸びというのはもしかしたら過信を恐れない暴挙を意味しているのかも知れない。たぶんそうしたほとんどが挫折に終わるのだとしても・・・。

 なぜ私は結局最も好んで自然と交わるかというに、自然は常に正しく、誤りは専ら私のほうにあるからである。これに反し、人間と交渉すると、彼らが誤り、私が誤り、更に彼らが誤るというふうに続いて行って、決着するところがない。これにひきかえ、自然に順応することができれば、事はすべておのずからにしてなるのである(「格言と反省」から)P56

 私はこの言葉をどこまで理解していたのだろうか。ゲーテがこれを書いたのがいつ頃なのか分らないけれど、「人が常に誤ること」を少なくともゲーテは理解し、私はその言葉に共感した。現代が、戦争や原発事故や災害など未曾有とも言える災厄に翻弄されているのも、「自然に順応できなかった人間の誤り」から来ているのかも知れない。そしてそれでも人間はそのことに気づこうとせず、もしくは気づかないふりをしようとしている。

 かの一は、永遠に一であろう。多に分かれても、一。永遠に唯一のもの。一の中に多を見いだせ。多を一のように感ぜよ。そうすれば、芸術の初めと終わりが得られる(「バキスの予言」から)P57

 万物は存在に執着するならば、崩壊して無に帰する外はないのだから(1821年10月作詞)P58

 ゲーテの言う「一」とは、必ずしも数学における「1」を意味しているものではないだろう。また「多」を無限と同視するのも、「無」をゼロと理解するも同様に誤りであろう。それでも限定的ではあるにしても、今の私はこの言葉を数学の延長上に捉えていもいいように感じている。高校生の私は数学が好きで、その名残りは生涯を通じて私の中に残り続けてきた。たとえ稚拙な素数や無理数の理解の中にも、「1」とは何だろう、「無限」をどのように理解すればいいのか、「ゼロ」とは何かなどの思いが、今でも私の中にほんの僅かな情熱としておき火のように残っている。そして数学は同時に哲学でもあると、私は今でもどこかで信じている。

 そうだ、その認識というのが問題だ。だれが事の真相をあからさまに言えよう。それをいくらか知っていておろかにも溢れる胸をそっとしておかずに、自分の感じた所、見た所を俗衆に明かした少数のものは、昔からはりつけにされたり焼き殺されたりした(「ファウスト」第一部588〜593行。ファウストが弟子のワグネルに真理研究者の運命を語るところ)P59

 この文章の後半「自分の感じた所・・・」から末尾にかけての文章に、私はクエスチョンマーク(?)をつけている。魔女狩りの歴史をそのころの私はまだ知らなかったはずだから、マークの意味は戦争や政治や企業の力など、正論が世の中に通ることの少ないであろう事を予感していたのであろうか。それともこのマークの意味は、社会であるとか大人に対する不信感の萌芽でもあったのだろうか。

 この本の赤ペンの個所に段々興味が湧いてきました。もう少し続けたいと思います。

                                       「16歳の私のゲーテ(3)」へ続きます


                                     2013.9.15     佐々木利夫


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