私は人生のほとんどを行政に所属してきた。高校を卒業して国家公務員税務職に合格して、そのまま税務職員として定年まで勤め上げたのだから、税務という特殊な分野ではあったにしてもまさに行政に首まで浸かった人生だったと言ってもいいだろう。そんな私が今更ながら「行政ってなんだろう」なんて意識を持つこと自体が変なのかも知れない。

 行政とはまさに三権分立の一つとして、立法・司法と対峙する国の大事な機関である。国会が法律を制定し、その法律を行政が執行する。そしてそうした立法や行政の執行に誤りがないか、国民相互がその法律をきちんと守っているかを司法が判断することが、わが国が法治国家として成立していることの基本になっているからである。

 そこで行政の役割であるが、単に法律の執行と言ってもその機能は多様である。基本的には国民に対する法律によるサービスではあるのだが、例えば警察による犯罪の取り締まりのように、その機能が犯罪に関与した個人なり法人にとってはサービスと感じられないこともあるだろう。

 税務署の仕事も同じである。脱税や課税漏れを発見するということは、国家財政の基礎を守るという意味では国民全体に対する義務でありサービスになるだろう。しかし脱税している本人にとっては、折角儲けた金を免れた税金として強制的に徴収されてしまうのだから極めて迷惑な話かも知れない。

 そうしたことは行政のあらゆる面に広がっている。保健所が伝染病や食中毒の検査をしたり、消防署が防火の査察をするのも同様である。それらの仕事は物の生産をしているわけではないと言う意味で、一般的にサービスと呼ばれる。私たちが普通使うサービスの意味は、例えば「100円の商品を95円におまけしておきます」と言うように、一方的な恩恵を意味することが多いけれど、行政の仕事は多くの場合国民に対するサービスがその責務である。

 ただここでは、もっと平たく、「国民の個々人が直接利益を受ける」という限定された意味のサービスしぼって話しをしたい。それは、行政は国民へのサービスという視点がどこかいつも欠けているような気がしているからである。そうは言っても、別の面から見るなら行政そのものが「国民の利益」、つまり「国民へのサービス」を目的としていると言ってもいいだろう。たとえその行動が「国益」と呼ばれ、「国際協力」などと表現されるにしてもである。

 例えば「窓口サービス」と言うのがある。役場や官庁の受付のことである。戸籍や住民票のために市役所を訪ねるとか、建築確認のための申請をする、納税申告書を提出する、運転免許の更新をするなどなど、国民が行政の窓口を訪ねる機会は多様である。もしかしたら、国民が行政と接触する最初の場面は「窓口」にあるのかも知れない。

 行政に人生のほとんどを捧げてきたにもかかわらず、定年でそうした職場を離れてから気づくことが多い。それは多分、立場を離れたからこそ感じることなのかも知れない。
 国の行政が「受け付けること」から始まることについて書いたのは、もう8年ほども前のことになる(別稿「御用聞きとしての国」2005.4.25、参照)。そこでは国が国民に向かって、御用聞きスタイルで要望を探し出してサービスを提供することはできないかとの疑問の呈示でもあった。

 行政にたずさわるのはもちろん地方なり国家なりの公務員である。だからと言って彼らに対して無制約、無期限、無報酬、無条件なサービスを要求しようとは思わない。適正な給与の保証も、労働環境の保証も必要だし、彼らとて国民の一人としてまっとうに待遇されることを否定するつもりはない。

 ただそれにもかかわらず、例えば土曜・日曜・祝祭日が完全に閉庁されてしまうことや、例えば9時〜5時で訪問者を締め出してしまうことなどにどことない違和感を感じてしまうのである。無休にして、24時間窓口を開けておくべきだと思っているわけではない。ただ休みの日に、便利な場所にある立派な庁舎が無人のままに放置され、事務室内はもとより駐車場なども含めて完全に部外者をシャットアウトしてしまっていることに、どこか行政の傲慢が感じられるように思うのである。

 こうした思いは、現在の私が土曜・日曜に関係のない環境にいるから抱くのかも知れない。もし私の生活が今でも行政の稼動・休日サイクルと完全に一致しているなら、恐らく窓口の閉鎖の傲慢に気づくことすらなかっただろう。でも、行政の稼動しているサイクルと、国民が現実に生活しているサイクルとはまるで違っていることに気づいたとき、行政のサイクルは、「俺たちの動きにお前たちが合わせろ」との独善的な意思表示になっていると思ったのである。

 だからと言って公務員の数を2〜3倍に増やして、24時間対応できる窓口にせよなどと主張したいのではない。公務員の数は今のままでも、例えば交代で夜間窓口を置くとか、駐車場を土曜・日曜日でも一般に開放するなど、国民の生活スタイルに行政も近づくための手段がとれるような気がしているのである。

 こんなことを言うと、すぐに管理が大変だ、予算不足だなどの意見が出てくるだろう。ただ、「実施が難しい」との理屈はすぐに出てくるけれど、「工夫すれば実現できる」との理屈や、「こうすれば国民へのサービスの増加になる」などの発想はなかなか出てこないのは、行政が常に閉鎖的だからなのであろうか。

 もう40年以上も前になるが、千葉県の松戸市が「すぐやる課」を作ったことを記憶している。官庁のいわゆる決裁行政、縦割り行政への痛烈な批判の感じられる施策だった。今でもこうした課が残っているのかどうか分らないけれど、「お上が決めたことに、下々が従う・・・」、「与えられたセクションを頑なに守る」そんな風潮は、これからの時代は理解されなくなっていくのではないだろうか。

 窓口でのサービスの拡大は、常識的に考えるならそれに携わる職員の増加を意味する。そうなれば当然に人件費の増加という発想へ結びつく。そうなれば、「人、金、物」に伴う言い訳の声がすべての官庁や企業から上がるだろうし、そのことは逆にそうしたサービスを拡大しない、拡大できないという論理へと結びついていくことになるだろう。

 これを解決するかも知れない手法が、TED(テッド/テクノロジー・エンターティメント・デザイン、アメリカで人気のある著名人によるトーク番組で、NHKEテレで毎週放映している)で紹介されていた。その手法とはボランティアによるスマホの活用であった。ネズミが死んでる、蜂の巣が軒にぶら下がっている、家の前のゴミ箱が溢れている、郵便ポストが遠くて不便、落ち葉が積もりすぎている、ベンチの塗装が剥げている、読み聞かせてくれる人が欲しい、買い物の手伝いをして欲しいなどなど、様々な行政への苦情や要望が窓口に届く。それを窓口は登録してあるボランティアのスマホに発信し、それらの人たちの協力を得て解決するのだそうである。

 これは外国での話しであるが、このような運動は「公共サービスは誰が担うべきか」という、基本的な命題を私たちに突きつけてくる。「我々は税金を払っているのだから、なんでもかんでも行政が処理すべきだ」との思いに対する痛烈な批判でもあるだろう。行政も解決を模索し、市民もまた行政への依存症からの自立を考える・・・、行政に対するそんな時代がすぐそこまで来ているのかも知れない。


                                     2013.9.5     佐々木利夫


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