日の出日の入りについて書いたのは、学問的には地動説が正しいにもかかわらず、私たちの生活の多くが天動説に依拠していることに関してであった(別稿「天動説、地動説」参照)。でも最近こんなテレビ番組を見て、何だかとてもやるせない気持ちにさせられてしまった。

 ビルの谷間にある小さな公園。数人しか遊べないようなすべり台やブランコ、そしてジャングルジム程度の小じんまりしたどこにでもある小公園での話しらしい。周りがビルで囲まれているので、当然のことながら日照時間は少ないことになる。そんな環境では、そこで遊ぶ子ども達がいかにも可哀想であるとの発想があったのだろう。「さんさんと注ぐ日光を公園に」と考えた人がいた。

 そこでビルの屋上に大きな鏡でできたパネルを2枚設置することにした。そしてその鏡で太陽光を反射させて、それを公園に向けるのである。しかしながら太陽は日の出から日没にかけて休まず移動していくから、そのままでは公園に照射される時間帯はすぐに外れてしまう。

 戸建て住宅の屋根全体を覆うような太陽光発電のソーラーパネルならば、ある程度の日照は確保できるかも知れないけれど、それでも季節による太陽の変動まではカバーすることはできないだろう。ましてやビル屋上の2枚の鏡では限界がある。

 そこでこの鏡を動かすことにした。月や星の位置を追跡して観測できる赤道義つきの望遠鏡がアマチュア向けにも市販されているくらいだから、太陽の動きに鏡を合わせて常に公園に日光が当たるような装置を開発するくらいは、費用はともかくとして技術的には簡単なことだろう。もしかしたら季節変動さえも考慮した恒久的な装置になっているのかも知れない。かくして、その小公園には、晴れている限り常に日光が降り注ぐことになったのである。「めでたし、めでたし」の解決であった。

 でも私にはそのことが子供たちから大切な何かを奪っているように思えてならなかった。ビルの谷間にある公園なのだから、子供たちが「夕焼け小焼け」の歌を歌いながら手をつないで我が家へ帰るような風景は見られないだろう。そもそもそうした公園で子供たちが集団で遊ぶこと自体が、現代は失われつつあるのかも知れない。だからそうした環境に対して私が重ねるイメージなどは、時代遅れも甚だしい風景だと承知の上である。

 それでも私は、窓からの明るさに朝を感じ、学校帰りや塾通いなどの風景に夕暮れを感じ、そして日射しを受けた影の動きを感じることは、人が生きていることの当たり前の感覚ではないかと思っているのである。そうした当たり前の自然の動きを、このシステムは封じようとしているのではないだろうか。確かに日が沈むと同時に鏡のパネルからの反射光も当然消えていくことだろう。そのときに子供たちは間接的に日没を知ることはできるだろう。

 私の思いなど、影ふみなどと言った昔の子供の遊びへのノスタルジーにしか過ぎないのかも知れない。それでも私は、そうした遊びがなくなってしまっている現代でも、日射しの傾きや光の強さ弱さの中に一日の変化や自然の移り変わりを、たとえ意識しなくとも子供たちは肌で感じているのではないかと思っているのである。影の動きから日時計を発見するようなことはないにしても、外遊びの中に自然の移り変わりや季節や1日の変化を私たちは無意識に感じているのではないだろうか。

 日照権という権利が世上を賑わしていたころ、日照を考慮してマンションを真四角の立方体ではなく、例えば10階建ての片方を7階建ての斜めに減らし、他者に対する日陰の影響を減少させようと考えた時代があった。そんな時代がいつの間にか過ぎて、公園に日射しが入らないのなら入るような設計を考えるようなことは、今ではもはや余計なことになってしまったのかも知れない。そして公園そのものも、例えば建築基準法による義務として作らなければならない施設にしか過ぎず、経済的経営的には邪魔な空間として位置づけられてしまっているのかも知れない。

 この話しは、マンションが三つも四つも林立しているであろう団地の中の、たかがブランコと滑り台がそれぞれ一つ程度の小さな公園での話しである。どうでもいい話である。仮にその公園に一日中日光が射さずとも、それで子供たちの健康にそれほどの影響があるとは思えない。

 それでも私は、屋上の鏡を動かして一日中日光の当たる公園にするという、そうした大人の発想の中になんだかとても悲しいものを感じてしまったのである。SF小説の中に、地球を脱出して他の惑星に移住する話がたくさん出てくる。場合によっては宇宙船そのものを数世代にわたる移住者の生活の場とするような話しだってある。そしてその中で人間は、平穏な生活のために24時間サイクルを採用することが提唱される。人工光を利用して模擬的に朝が始まり、やがて暗くなり夜を経て24時間後に新しい朝を迎えるというサイクルの採用である。それはそのまま「年」のサイクルとも結びついていくストーリーである。

 それはそれで理解できないではない。恐らくそれが地球を永遠に放棄せざるを得なかった人びとの、これまで培ってきた地球システムへのノスタルジーに過ぎないことだとしてもである。しかも一方において人類発生から数百万年を経た私たちには、既に体内時計とも言われる24時間サイクルのシステムが細胞レベルにまで組み込まれているらしい。だとするなら24時間の繰り返しは人として生存を続けていくための必要なシステムになっているのかも知れない。

 だがこのビルの屋上の鏡は、そんな切羽詰った「人類としての種の保存」にまで関わる話しではない。私にはこうしたビルの屋上に鏡を設置するという発想が、どこか町内会のおじさん方の猿知恵、それもとんでもない浅知恵に思えてならないのである。

 こんなことを書いているときに、こんなテレビ番組を見た。園芸コーナーの話題で、ある花の育て方についてであった。日当たりの悪いベランダなのでどうしたらいいかとの視聴者からの相談である。相談を受けたプランナーはこう答える。「この花にはどうしても長時間の日光が必要です。壁にプランターを置けるような台を取り付け、床から台へと花を引き上げてください。そうすることで太陽に近くなりますから・・・」(NHK 2013.11.15 朝 Eテレ)。そのことに数学的な誤りはないだろう。プランターを50センチ高くすれば、50センチだけ太陽に近づくことに間違いはないだろう。

 この話しを聞いて、海にコップ一杯の水を注いで、これで海の水が増えたと言った人の話を思い出した。高校入試で数学としてこんな問題が出たとしたら、もちろん水が増えたとする回答を私も選ぶかも知れない。でも日照が必要だとする対策に、プランターを持ち上げて太陽に近づけるという発想は、私には荒唐無稽としか思えなかった。

 ビルの谷間の小公園にしろ、プランターの持ち上げにしろ、私たちはどこかで太陽に対して理屈抜きの信仰を抱いているのかも知れない。それを理解しつつも、ただそうした無意識の信仰に対して、科学的だと称する数値を当てはめて正当化するような仕草は、やっぱりどこか間違っているような気がしてならない。そしてそれは間違いを超えて、もしかしたら「信仰の強要」みたいな分野にまで拡大している恐れがあるように思ってしまったのである。


                                     2013.11.16    佐々木利夫


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