高圧酸素治療の密閉ボンベに仰向けに幽閉され、本を読むことも音楽を聴くことも許されないまま、時間だけがいかにもゆっくりと過ぎていく(別稿「高圧酸素治療体験記」参照)。まだ小1時間しか経っていないというのに、にわかに尿意が襲ってくる。一度、二度なんとか押さえ込むが、なにしろここは僅かの身動きのほかはなんにも許可されない密閉空間である。トイレを探すことはもちろん、男の特権たる(そういえば太宰治の小説「人間失格」には女も同じようにできることが書いてあったなとまるで関係のないことをふと思い出す)草むらや電柱を目がけて目的を達する行為も、ここでは不可能である。

 解放手段の選択が不可能であることの意識は自力で押さえ込む努力をあざ笑うかのよう切迫を発信し、身体は益々激しく解放を求めてくる。次第に我慢の限界が自力ではコントロールできなくなってくる。残されたたった一つの手段は、この仰向きになった姿勢のまま穿いている紙おむつの中に限界を解き放つことである。

 現象的にはそれほど珍しいことではない。こんなことは赤ん坊の時には世の中の誰もが、恐らく一人の例外もなしに経験したことだろうからである。だがそれは誰もが意識とか自覚なんぞのまるでない状態での結果だったはずである。そのほかにも禁断症状の中で、ふと私は小学生の頃までおねしょをしていた記憶を思い出す。でもおねしょは無自覚の結果的現象である。たとえトイレで用を足している夢を見ての結果だったとしても、目覚めた状態で意識的にふとんの中で用を足すことなど決してなかったからである。出来上がった世界地図は、朝の目覚めと共に発生する結果でしかない。また、くしゃみや咳などにつられて失禁することもあるだろう。それだって意識しての小用とはまるで異なる結果的な現象である。

 だが今回の経験は違う。今はきちんと目覚めているのだし、膀胱のコントロールは自らの意識に完全に委ねられているからである。ただそのコントロールの限界がきているだけのことである。恐れていた「万が一」が到来したのだし、だからこそその万が一に備えてあらかじめ紙おむつの装着をしているのである。こうなったら到来した万が一に身を委ねる以外にないことは頭では理解できる。我慢しつつ、我慢しきれない状況に身を委ねることにする。だが一気に解放するような気には到底なれないし、気持ちはなっても身体がその指示に従うことを拒否している。最大限の我慢を維持しつつ、少しずつ解放してゆかざるを得ないのである。

 姿勢は上向きである。男の尿道は紙おむつに直接吸い取られるような位置にはない。解放された水流はへその下あたりをじわじわと漂い、腰の横を這って流れていく。その流れていく生暖かい感触を、私の皮膚はまざまざと感じることができる。どうせ解放するのだから、一気に解放しようが少しずつだろうが同じであろう。結果的には膀胱に貯蔵された全量が放出されることになるだろうことは頭では理解できる。

 だがことは思惑通りにはいかない。一気に解放する指示を、私の身体は受け付けてくれないのである。つまり結果的に「我慢の状態を維持しながら少しずつ解放する」ことになってしまうのである。そしてそうした解放は、いつまでもだらだらと続き、尿意の消滅というか開放感というか、そうした満足感を私に与えてはくれないのである。へその周りのじわじわ感だけがしつこく続き、一件落着の信号が私に伝わってこないのである。

 このとき私は、どこかで人間としての尊厳みたいなものが試されているような気にさせられた。これまでにも例えば尊厳死などで尊厳という言葉を使ってきたし、仮に尊厳と言う言葉を使わなくても人間としての自律であるとか人として生きていくスタイルなどに、ありうべき信条や哲学などを重ねるものとして尊厳の意味を理解してきた。たとえそれが実行したり信じたりすることが難しいとしても、人が人であるための基本的な要件として、私は尊厳という言葉なり意識を使ってきたように思う。

 それとこの紙おむつとはなんのつながりもないにもかかわらず、私の尊厳意識が試されているように感じた。それは単なる下半身の話題に対する気恥ずかしさであるとか、どこかでタブー視している下の世話を他者に委ねることにへの戸惑いに類似した感覚なのかも知れない。だからそれを「尊厳」の意識と対比するなどは大げさ過ぎることかも知れない。それでも私はこの紙おむつへ放尿する行為が、どこか私自身の誇りに対する私自身による冒涜でもあるかのような意識に襲われたのである。

 この場面はまさに緊急避難である。しかも私がなそうとしている行為は、恐らくこのような状況に追い込まれたであろう多数の患者の共通した選択肢であり、しかもそれ以外に手段のない選択肢であっただろう。刑法は正当行為の要件として「急迫不正の侵害」を掲げているが(刑法36条)、不正はともかくこの状況は急迫そのものである。また緊急避難の要件として「現在の危機を避けるため、やむを得ずらした行為は、これによって生じた害が避けようした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない」(刑法37条)と定めているのだからこれにも該当するだろう。病院側も看護師もそのことをあらかじめ了解していて、だからこそその被害が最小になるように紙おむつという対策が講じられているのである。

 だがそれを十分に理解しつつも、私の膀胱をコントロールする筋肉は私の解放の指示に素直には従ってくれない。この解放行為は寝小便のような無意識の結果によるものではない。また例えば失禁のような自力の制御に造反する身体反応とも異なる。自らの意識で衣服の中に放尿するという行為を自ら承認することなのである。最初は、我慢をしながらその我慢を超えて漏れ出したのであるが、それでは緊急避難の開放感に結びついていかないのである。いつまでも我慢する状態が継続して「漏れ出し」状態の意識と現象が続くだけなのである。緊急避難のからの解放には、この「漏れ出す」現象からの解放、つまり意識的に解放の宣言を自身の身体に言い聞かせる覚悟が必要なのである。

 そうした緊張の弛緩を膀胱に命令しても、身体が素直には応じてくれないことは驚きであった。緊張の解放には更なる意識としての解放命令が必要になったのである。この命令は下半身に広がる生暖かい液体の広がりに加えて、「恥ずかしい」という意識を超え人間としての品性が否定されるような、まさに「尊厳の否定」を私に強要するものであった。

 そうした意識の強要にも関わらず私は、間もなく開放感を味わうことができた。密閉から1時間が経過、小窓の看護師から「減圧に入ります」と告げられて、拘束時間1時間30分は遅々ながらも完了へと向かって行った。紙おむつの吸水性にはすばらしいものがある。特に濡れた感じもしないまま、拘束を解かれた私は、まっすぐにトイレに向かい小用を終える。再度の緊急避難が近づいていたからである。今度の緊張感の解放には何の戸惑いもない。なんという素晴らしさであろうか。これこそが小用の純粋な開放感である。

 そして私は濡れた紙おむつを専用容器へ廃棄しながら、この密閉空間での体験を反芻する。なにしろこの治療は今日から10回にわたって、日曜日を除き毎日繰り返されることになっているからである。そして更に思う。私がこれまで身の裡に抱えてきた「尊厳」の意識なんてのは、これしきの軽いものでしかなかったことを。人類の正義、人の抱く命への思い、宗教や哲学や死や祈りなどの多岐にわたって私が抱いてきた「人間の尊厳」に対するイメージは、たかが紙おむつの中に自分の意思で小用を足すという、これしきの経験で壊れてしまうような脆いものだったのである。

 私はこの時密閉10回10日を経験した。その勝敗数をここで記すことはすまい。たが一敗だけで済まなかった事実だけは白状しなくてはならないだろう。腰の周りにじわじわと広がっていくあの奇妙な感触と共に、私は「尊厳」という言葉を意識するたびにこの時の経験を繰り返し思い出すことだろう。


                                     2013.5.30     佐々木利夫


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紙おむつ体験記