2回目、8年ぶりの脳梗塞が再発して入院したことは書いたばかりである(別稿「脳梗塞が再発した」参照)。その治療の一つにこの高圧酸素治療というのがあるらしく、私は生まれて初めて体験することになった。これはその体験の顛末である。私はこの治療の目的も効果も知らないので、その治療方法についてとやかく言う資格はないからここでは口をつぐむしかない。

 私の経験したマシンは上記の写真のようなものである。この病院では少し小さめの病室と同じような部屋に、この装置が二台並んで置かれていた。患者はこの中に横たわり、丸い蓋で密閉されるのである。私のイメージによると、小さいながらも個室があってその室内で本を読んだり音楽を聴いたりしながら一定の時間をゆったりと過ごすという感触であった。多分それは海外ドラマか何かの影響だったかも知れないし、他に別な装置の勘違いだったかも知れない。何たって他人の話しとしても高圧酸素で治療した話など聞いたこともなかったからである。

 ところが現実は違っていた。もしかしたら私の思っているような個室式の装置がどこかにあるのかも知れないけれど、目の前に鎮座しているのはまさに人間がかろうじて入れるようなドラム缶の横倒し装置だったからである。驚いたけれど、逆に生まれて始めての経験でもあり興味も湧いてきたことは事実である。ただ内容を聞くにつけ、少し尻ごみ意識も生まれてきた。

 まず密閉時間であるが、中に入っているのは1時間20分だが、事前の準備に10分ほどかかるのでトータル1時間30分ほどの拘束である。専用の着衣に着替えるように指示され、下着は木綿100パーセントのものでなければならないと言われる。あわててパンツについているタグを確認する。最近の衣料はナイロンだのポリエステルの混紡など多様だからである。無事合格。このほかもちろんイヤホーンや湿布などの付属物の持ち込みは完全禁止であり、たまたま直前になされた採血の注射の跡に止血のために貼り付けられていたアルコール綿花やそれを押さえつけている絆創膏も禁止だそうではがされる。つまり専用着衣と木綿のパンツ一枚のほかは紙一枚持ち込めないということである。軽めの本でも読もうか、MP3プレーヤーでベートーベンの第九でもこの際じっくり聞いてみようか、などの思惑はこの時に無残にも閉ざされたのであった。

 この密室の中では多少の身動きはともかく「考える」こと以外は何もしてはいけないし、またできないことが分った。ドラム缶に入るためのベッドに横たわろうしたとき、看護師から「トイレはいいですか」と聞かれた。それで気付いた。密閉された中なのだから、トイレ休憩はないことになる。通話装置はついていて非常用ボタンを押すことで外部と話はできるけれど、事故などの緊急時はともかくトイレ休憩など認められないとのすげない返事である。それに内部は2気圧に加圧してあるので、それを急激に平常気圧の1気圧に戻すことはできないと、これまた理屈の通った反論のしようもない説明である。

 「それじゃあ必要になったときにはどうしたらいいんですか」と尋ねる。だがその返事もまたあっさりしたものだった。「そのまましてもらうしかありません。万が一が心配なら、大人用のリハビリパンツがあるので穿いてください」との回答である。それでもたかが1時間半の辛抱である。普段だってトイレの間隔は3時間や4時間あるし、今回は事前に排尿をすませていたので心配することはないだろう。とは思うものの、万が一というのは予想が外れるから万が一なのである。「万が一」と「絶対」とは違うのだし、その違いたるやこの横倒しドラム缶を内部から水没させることを意味している。しかも点滴とはいいながら一日4回もの口以外からの水分摂取をしているのだから、そのことも考慮しなければならない。

 絶対をつけてもいいほど大丈夫の自信はあったものの、それこそ万が一を考えてリハビリパンツを用意することにした。病室に戻って渡されたパンツに穿きかえる。リハビリパンツと看護師は言っていたけれど、要は大人用の紙おむつである。ワンピース様の専用着衣を着ているので下着は隠れているものの、穿いている身としてはなんとも不恰好な気持ちである。さらに万が一を考慮して看護師は、その紙おむつの下にもう一枚同じような材質でできた小さなシーツを敷き、いよいよ装置の中に送り込まれることになった。

 胸の三箇所に心電図に使うようなセンサーを貼り付けられ、「この小さな窓から壁にかけた時計が見えますから」と伝えられ、ドアが閉められさらにガチャガチャとそのドアをかんぬき様の金具で密閉する音が聞こえる。どうやら経過時間だけは知ることができるようだ。間もなく「シュー」という音が聞こえてきて、飛行機に乗ったときのように耳がツーンと痛くなる。それはあらかじめ聞いていたので、つばを飲み込むような動作を繰り返すなどで楽になれたが、加圧は一瞬ではなく20分も30分も続く。装置内には直径10数センチほどの透明な小窓が4箇所あり、その一つからは時計が、胸の上のもう一つからは60ワットの裸電球が点灯されている。残りの小窓は患者状態をモニターするためのものだろう。いずれの小窓も6角形のボルト8本でしっかりと止められており、まさにここが密閉空間であることを知らせている。「シュー」という音はどこからともなく間断なく続いている。こうなっては「まな板の鯉」である。1時間20分を退院後の楽しいことを考えるか、しばらくご無沙汰になるエッセイ発表のネタでも考えて過ごすことにしよう。何なら我が人生の未来のあれこれや、過ぎ越しことどもをじっくり考えるのも悪くない。

 だがダメなのである。私は閉所恐怖症ではない。だがこういう環境における訓練ができていないからなのか、それともこういう環境に置かれた人は誰でもそうなるのか、一つことを考え続けることがとても難しいのである。そして考えることはたった一つ。「トイレに行きたくないか」、ただそれだけなのである。時計を見るとまだ30分くらしか経っていない。それなのに「トイレに行きたい」と言うのではない。「トイレに行きたいと言う気持ちになっていないか」という思いが頭から離れないのである。仰向けの寝ていて腰が少し痛いとか、鼻の頭が痒いとか、そうしたどうでもいい事柄の全部が小用意識の結びついてしまうのである。つまり、入ったとたんに「オシッコ」のこと以外に頭が回らなくなるのである。

 しかも、しかもである。入ってからまだ1時間も経っていないというのに、にわかに尿意を催してきたではないか。当然我慢する。どうやら治まった。でも数分を置いて再度の尿意である。我慢する意識が逆に尿意を促進させているのではないかと思えるほどの強烈なものである。しかも密室でトイレには決して行けないという状況が、その尿意をさらに促進させているような気がする。思いあまって外部で監視している看護師に窮状を訴える。小さな窓から顔をのぞかせた看護師は、マイク越しに非情な回答を伝えるのみである。さあ、どうする。


                               この続きは来週の「紙おむつ体験記」をどうぞ。


                                     2013.5.26     佐々木利夫


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高圧酸素治療体験記