6月から始めた私の温泉めぐりがどうやら一段落した。これを発表しようとするきっかけは、別稿「私の温泉行脚」にも書いたけれど、昔のパソコンで整理した一覧表が見つかったからであった。実は、その一覧表に載っている温泉の数は148件であった。発表しようと思ったのは、と言うよりはこうした一覧表を作った動機そのものが、自分なりにその数を自慢したかったからだろうと思う。たとえ他人に見せて感心させたいと願うような気持ちはなくても、どこかで自分なりに自慢したい気持ちがあったのだろうと思う。それはつまり、「どうだ、俺はこんなにも沢山の温泉に浸かったんだぞ」との自慢話しでもある。

 たとえそうした自慢が老人の鼻持ちならない癖だとしても、こうしたホームページに発表する程度のものならば見たくない人はパスすればいいのだし、酒の肴にくどくど話しこむような癖を持っているわけではないので、誰に閲覧を強要するわけでもない。だとするなら、個人の自慢話としては許容できる範囲にあるのではないだろうか、とこれまた言い訳をしている。

 と言いつつ、こんな風に発表の後日談を書こうとしているのは、やっぱりどこかで「他人に褒めてもらいたい」とか「自慢したい」気持ちが、頭かくして尻隠さずみたいに見え見えである。まさにホームページへの発表であり、見知らぬ人がこうしたページに訪れて、「ふん」と鼻息一つ吐いてパスする程度のもので誰に迷惑をかけるでもないだろうから、興味のある方はもう少し私の自慢に付き合ってください。

 書き終えて自分でも感心したのは、巡った温泉の数が200を超えたことであった(別稿「私の歩いた温泉あちこち」参照)。日本は火山国だし、火山あるところ温泉ありは一種の常識でもあろう。その上、地球はマグマの上に地殻が乗っかって地面を形成しているのだから、理屈から言うなら地面を掘り下げていくなら、それが地下何百メートルになるかはともかくとして、いずれ温泉に突き当たるであろうこともまた自然現象かも知れない。

 全国にどのくらい温泉があるのか知らないけれど、優に1000を超えるだろうことくらいは想像できる。だとするなら200程度はそれほど自慢できる数ではないけれど、ともあれ200を超えたというのはそれなりに努力した結果であるくらいには認めてもらえるだろう。中には地図で見つけた名前を頼りに車で探し回り、その結果廃業したとか、とうとう見つからずじまいなどで残念ながら湯に浸かれなかったものもいくつかある。それらを200の数に含めていいのかどうかは疑問もあるけれど、まあそれなり探す努力をしたのだからご容赦願うことにしよう。

 こうして一覧表を眺めてみると、その時々の湯の思いがわき上がってくる。もちろん中には、きっとパック旅行の予定地で特に意識することなく泊まった温泉もあったような気がする。パンフレットがアルバムに貼ってあるにもかかわらず、そしてそのパンフレットにいかにもあらたかな効能が書かれているにもかかわらず、サッパリというかまるで湯に浸かったような記憶のないものも一つ二つ存在している。その湯どころか、そのその温泉のある地域というか場所までもが記憶からすっぽり抜けているのは、多少驚きでもある。行きたいと思って行った温泉はそれなりに記憶しているのに、パック旅行などでコースの中に組みこまれ特に意識しなかったことがそうした結果を生んでいるのかも知れない。

 そうした温泉はともかく、ほとんどの温泉が懐かしく思い出される。この一覧表を作成する動機を書いた冒頭の文章でも触れたように、「数を稼ぐための入浴」みたいな意識もあって、それぞれの温泉に「泊まって浸かった」ということではない。むしろうろ覚えではあるのだが、「泊まらずに単に入浴して通過しただけ」の温泉の方が多いのかも知れない。こんな形で公開するのだったら、もう少し泉質だとか周りの景色だとか、旅館の雰囲気や近くの観光地の感想などをメモっておくのだったが、恐らく20数年かそれ以上昔の記憶をさぐることは難しい。

 それでも断片的ではあるけれど、ふいに露天風呂の風景や印象、途中で立ち寄った土地の景色などが切れ切れに浮かんでくる。それは例えば温泉そのものの記憶でないにしても、その温泉へ行こうと思い立った動機であるとか、湯船が胸よりも深くて危うく溺れそうになったこと、同宿の農閑期のばあさん数人から子供からの差し入れの酒に付き合えと言われて当時高級だったジョニーウォーカー黒のウィスキーを湯呑み茶碗で飲んだこと、風呂の中に体を洗ってから入れという張り紙があってそのまま飛び込んだ若者が老人に叱られていた状況などなど、どうでもいいことも含めて色々な思い出が湧いてくる。

 だから逆に旅行の記録というのはつまらないと私は思っている。本人にとってはとても素晴らしい記憶だろうし、その記憶の断片が仮に旅行そのものではなく、ともにリュックをかついだ友人の笑顔や茶店で口にしたアイスキャンデーの冷たさに過ぎないとしても、旅につながる貴重な記憶にだってなるだろう。
 だがそうした記憶は本人にしか意味がない。経験した私以外の、家族にしろ友人にしろ、はたまたこうしてホームページに発表したエッセイ文を読んだ者にしろ、その体験を私と共有することは不可能だからである。

 まあそれは私とこうした文章に触れたあなたとの不運な邂逅に過ぎないのであって、読むのを強要されたりすることはないのだからそこんところは諦めてもらうしかない。また中にはつい読んでしまって何らかの悪影響を受けてしまったという結果が生じなかったという場面がないとは言えないかも知れないけれど、それは私の文章の魅力によるものだろうからそれもまたあなたにとっての不運というしかないだろう。

 ともあれ私の温泉めぐりは200湯を超えてとりあえず終わりを告げた。まだ九州に一つ二つ残っているような、また東北にも数箇所残っているような気がしていて、どこかすっきりと「完了」と言えない気持ちが心のどこか残っている。また旅の途中で「行きたいと思い、つい行きそびれたままになっている温泉」というのもいくつかある。山形県にある「赤湯温泉」がそんな中の一つである。特に何かの特徴があって「行きたい」と思ったわけではないのだが、ついつい行きそびれてしまっている温泉である。出かけるのが億劫になってきている70数歳の老爺の私だから、思いだけで実現は叶わないかも知れないが、今でも後ろ髪を引かれる思いの残る温泉である。桜が見事だと聞いたことがある。JRの乗り換え案内か線路沿いの看板を、どこかで見て行きたいと思った記憶がある。そして「行ってみよう」と思いつつ列車から降りる機会のなかった温泉である。「赤湯温泉」である。


                                     2013.11.27    佐々木利夫


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温泉めぐりを書き終えて