これを発表するのは参議院選挙の投票日の翌日だろうから、恐らく前日の投票日のテレビ・ラジオは徹夜で選挙速報を報道し、今頃はその大勢も決まっていることだろう。そうは言っても内乱や銃による選挙妨害での選挙や、投票という民意に名を借りた専制政治や独裁政権の下での選挙などとは異なり、日本の投票はそれなり信頼できるシステムで構成されているから、国民は結果の公正さを信頼していることだろう。だから他人の投票用紙を使ったとか、期日前投票のやり方を間違えたとか、あるいは投票用紙の配布を間違えたなどのケースが仮にあったにしろ、選挙全体の結果が手続き的に無効となるような例は考えにくい。

 自民・公明の衆議院における過半数の優位政党(つまり与党)が、今回の参院選によってネジレが解消して衆参共に与党が過半数議席を獲得できたのかどうか、それは選挙明けの楽しみにとっておくことにしよう。選挙に関する報道は、争点が多数存在していること(別稿「政治と国の行方」参照)に加え、今回の選挙からインターネットの利用ができるようになったことなどもあって、様々な意見が交わされている。

 これから書こうとしているのはある新聞記事についてである。今回の選挙がらみもあって掲載されたのだろうが、その参議院選挙に直接関係するものではない。ただ書いてあることに、ふと違和感を覚えたのである。

 「選挙の記録が消えている。私がそのことに気づいたのは、現憲法下における全市町村の選挙がいつ行なわれたかを調べている最中であった。選挙の時期くらい総務省に尋ねればわかると思っていたのだが、実は総務省はおろか、ほとんどの都道府県選管、多くの市町村において、昔になるほど市町村選挙の資料が残っていなかった・・・」(2013.7.5 朝日新聞17面 失われた選挙記録 様式を統一し、永久保存を 学習院大学教授)。

 この見解は事実の記述になっているから、検証したわけではないけれど恐らく言っているとおりなのだろう。ただこれに続いて、「このようなことが起きるのは、公職選挙法施行令で選挙記録の保存期間が首長や議員の任期とされているからだろうが、それにもまして過去の選挙に国も自治体も関心がないからだろう」(同記事)と断じていることには独断が過ぎるように思えたのである。選挙資料に関心がないのか、それとも自治体や閲覧を望む者なども含めて必要とするような事態がそもそも国民的意思としてこれまで起きてこなかったのか、必要とされていながら怠慢で実行されていなかったのかなどの検証が、記事を読む限りまったくなされていないからである。

 それにも増して気になったのは次の意見であった。

 「昔の選挙などどうでもよいと思われるかもしれないが、実はここには現在の地方政治に直結する二つの問題がある。一つは、簡単に言えば、過去の首長や議員が選挙で勝った確かな証拠はない、ということである。もうひとつは、・・・こと政策決定については不必要なまでに地方分権が進んでいるということだ」(同記事)。

 「保存がないから過去に行なわれた選挙の正当性に関する検証ができない」という一文だけを取り上げるなら、言葉だけとしてはなんとなく理解できるような気のしないでもない。だが論者も書いているように、少なくとも選挙で選ばれた者の任期中は選挙の資料は保存されているのだし、その期間中なら有権者や正当に望む者なら、一定の手続きのもとでそれを閲覧することもできることだろう。その保存期間が短いというのなら長くする要求をするのもいいだろう。でも、選挙結果は一切発表しない、また閲覧も認めないというのならともかく、当選者の任期が過ぎてしまうとその選挙に関する資料が廃棄されてしまうからと言って、そのことだけで「選挙で勝った確かな証拠はない」と断じてしまうのは余りにも偏見ではないだろうか。

 確かに論者は過去の選挙制度について研究している者なのだろう。そして恐らく研究の過程で必要と感じた資料が残されていないことに気づいたのだろう。だから彼が「旧い資料も欲しい」と思った気持ちが理解できないではない。でもその気持ちを選挙の正当性を疑問視することに糊塗して、あたかも永久保存を求めることが正当な要求であるかのような根拠にしてしまうのは間違いではないだろうか。
 それはまさに屁理屈である。選挙に限らず、「裏づけ資料の保管のない事実はすべて正当性が疑わしい」と言っているのと同じだからである。論者の意見を通すなら、現職の首長や議員以外の、過去のすべての首長・議員は、選挙というシステムで選ばれたにもかかわらず、その証拠となる資料の保存がないというだけの理由で、正当に選ばれたという資格がないことにされてしまうからである。

 その上論者は、「選挙記録の永久保存」と「記録様式の全国統一と一ヶ所での保存」を提言し、「これによって地方政治の民主的基盤が整備されることを期待したい」(同記事)と結んでいる。でも、これしきのことで果たして「地方政治の民主的基盤」が整備される保障になるのだろうか。本当に例えば昭和初期、大正期、明治期などの選挙資料が現在まで保存されていたなら、現在の地方政治の民主的基盤が整備され本来の地方自治が実現することになったのだろうか。

 膨大になるだろう資料の「永久保存」のための場所や搬送などの費用は、恐らく税金から支出されるだろうから当然考えなければならないけれど、私が提起しているテーマからは外れるのでここではとりあえず論外としよう。それを除外しても私は彼の提言が、自分勝手な独断に過ぎないように思えてならない。

 「研究のために必要な資料が廃棄されてしまっていることが口惜しい」という気持ちの分らないではない。でも彼の意見は私には、「全国を回って閲覧し、集め、分析するのはとても面倒くさいので、一ヶ所で済むように集約化してほしい、ついでに様式も統一して研究者(つまりは論者たる彼)に分りやすいようにしておいて欲しい」との単なる我がままな要求のように思えてならない。保存期間の延長ならばまだしも、彼の要求は永久保存である。

 こうした要求に正当性があるのだとするなら、恐らく官庁で作成される資料のすべてが公務員の仕事に対する正当性や妥当性の評価のために必要であるとして、また企業の内部資料なども企業活動の正当性の検証や株主保護などに必要であるとして、いずれも保存期限を設けることなく、未来永劫倉庫に眠ることを認めることなってしまうような気がするからである。


                                     2013.7.17     佐々木利夫


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