どんな場面で出てきた言葉だったろうか。こんな一言をテレビで見たとのメモが手許に残っている。フランスの老女の、とても穏やかな一言だった。

 「死のことはいつも考えているわ。死を受け入れると、拒否ではなく流れに任せられるの。・・・死ぬ時まで死の意味は分からないわ・・・」(2003.7.17、どのチャンネルのなんという番組だったかはメモられていない)。

 恐らくこうした言葉は、老人だからこそ出てきたのだろうと思う。私も73歳を迎えたから、本人の老いに対する自覚の程度はともあれ立派な老人の部類に入ることだろう。しかし、ここまでの穏やかな気持ちで「死」を自覚できるかと問われるなら、まだまだ遠いような気がしている。恐らくそうした自覚は、単に年齢の積み重ねのみによるものではなく、過ごしてきた時間に生きてきた人生そのものを重ねて始めて形成されるものなのだろう。

 死については、つい最近触れたばかりである(別稿『死のカタチ』参照)。そこで私は「自殺」と「自分のものとしての命」について考えてみた。答えは出なかったが、「所有権としての命」に疑問だけは呈示することができたような気がする。ただ「所有権」は否定したものの、それでも少なくとも「自分で始末することのできる命」という観念と事実については、どうしても払拭することはできなかった。そして「事実としてコントロールすることが可能な自分の命」という考えを根こそぎ否定することができない事実に、どうしても自分を説得することができなかったというしこりが残ってしまったのである。

 この歳になってくると、死を「一つの私の結果」として「受け入れる」ことはそんなに難しいことではない。また「流れに任せる」ことも理解できる。ただ、そうした考えにどこまでこだわれるかは、また別の思いでもある。

 この老女の語る「流れに任せる」とは、恐らく言葉は違うかも知れないけれど、大きな自然に委ねる、つまりそれを神と呼ぶか大いなる意思と呼ぶかは別にしても、個人を超えた意思に委ねることを意味しているのだろう。死は自殺などを除いて自分の意思でコントロールできないだろうから、そうした意味では「委ねる」と言う表現が妥当かどうかはともかく、「私の手を離れた」別次元に命を預けることを意味していることなのではないだろうか。
 ただそうした状態のとき、「委ねる」意思と「生きることを放棄する」との乖離に、私はどこかこだわりを感じてしまうのである。

 例えば友人と「死」について話す機会があるとき、痛かったり苦しかったりする死までの経過が嫌だから「なんにもしない」(ただし治療はしないけれど痛みや苦しさを除くための緩和ケアは認める)とする意見と、「じたばたするのが人として生きていること証しなのではないか」との意見とがぶつかることがある。
 もちろん、見かけ上の対立ほどに両者の意見が異なっているわけではないだろう。「なんにもしない」と言ったところで、あらゆる治療を拒否しているわけではないだろうし、「じたばたする」としたところで、「死にたくない、なんでもいいから助けてくれ」と病床で絶叫しのた打ち回ることまでを望んでいるわけでもない。

 もしかしたらこの両者意見にはそれぞれに多少なりとも幅があって、しかも互いに接しているのかも知れない。ある種の幅のある意見Aと意見Bが接してしたとき、意見Aの左端と意見Bの右端は水と油のように異なっているかも知れないけれど、Aの右端とBの左端とはまさに同じ位置にあることになるだろう。そしてもう一つ、AやBの持つ意見のそのものの幅が思ったよりも小さかった場合などは、この両者に互いが感じるほどの違いはないことだってありうる。

 しかし私は、両者にそれほど実質的な違いはないかも知れないと思いつつも、「なにもしない」選択と「じたばたする」選択とを、まるで異質なものとして感じてしまうのである。それは、「なにもしない」ことの中に、「生き延びよ」と言う種としての潜在的な指令を放棄してしまっているような感情が潜んでいるように思えるからである。
 もちろん「それは程度の問題だよ」と言う声が聞こえないではない。「ここまでは頑張るけれど、そこを超えてまで生き延びようとは思わない」という一線があり、それを超えるような選択は「しないだけのことさ」との思いが「なにもしない」になっているのかも知れない。だからその一線を「じたばた」に近づけることによって、結果的に私の思いとそれほどの違いはなくなるのかも知れない。

 つまり、私の言う「じたばた」だって、どこかにボーダーとなる一線があるだろう。作り話かも知れないけれど、赤ん坊の生き胆(肝臓か胆嚢のことだろうか)を食べることで不老不死が得られると信じた権力者が、従者に命じて何人もの赤ん坊を誘拐させたと言う物語を読んだことがある。生への執着をどこで一線を引くかは、実はとても難しい選択であろう。個々人の主義・主張もあるだろうし、財政的な制約だってある。世界トップクラスの医者がアメリカにいて、その治療を受けるためには渡航費なども含めて数億円が必要になるとするなら、私は考えるまでもなくその治療を放棄することにならざるを得ないだろう。

 「金と命の比較か」などと皮肉は言うまい。僻地に住む人の先進医療への遠さ、たまたま近くにいた名医と呼ばれている医者との出会いなどなど、時間も金もチャンスも、世の中はそれぞれの人に対してそれぞれ不平等にできているものなのだから。

 ただ私は、「なにもしない」との選択が人の口から出るとき、そこにどことない「格好づけ」、「いいふりこき」、「本音隠し」、「強がり」、「ええかっこしい」などを見てしまうのである。もう少し弱音を吐いてもいいのではないかと思ってしまうのである。自分の死は、決して「他人(ひと)に見せるための死」ではない。そして死と闘うことの放棄は、潔いことでも、称賛されるような見事さでもないと思うのである。むしろ「じたばたする」ことの中に、人間らしさであるとか、人としての当たり前さを感じるような気がしているのである。

 そして更にそうした姿を見せることは、例えば配偶者や親族の思い出の中に「私も生き延びようとする人の気持ちに寄り添って、共に闘った」との共感意識を育むのではないだろうか。そして、そしてそうした意識はもしかしたら、死を理解した者が残された者へ残すことのできる、ほんのささやかなプレゼントになっているのではないだろうか。だから命は自分だけのものではなく、同時に死もまた自分だけのものではないと、私は思いたいのである。


                                     2013.8.30     佐々木利夫


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