「命」を定義するのはとても難しいだろうけれど、私は長い間その意味をまず「人の命」を中心にすえ、そこから他の動物や植物、更には昆虫や微生物にまで拡大することで理解してきたような気がする。そのこと自体を間違いだとは思わないが、人間の命と昆虫の命とをどこまで同一視するか、どこで線引きするかを深く考えることもなく、無意識に命の質が違うことを検証なしに許していた。
それはそれでいいんだと思う。そうした思いは人それぞれ異なるだろうし、例えば動物愛護に熱心な者と私とでは少なくとも犬猫の命の重さに対する評価は異なるだろうからである。もしかしたらそれは人間を霊長類と名づけて進化の頂点に置こうとする無意識の驕りがそうさせているのかも知れない。それはそうなんだけれど、そうした違いを理解しつつ、「命」に対する基本的な思いにはそれほど違いがないだろうとどこかでたかをくくっていた。
そしてその延長に自殺というテーマがあった。日本の自殺者数はここ数年3万人を超えている。昨年は3万人を切ったとのニュースを聞いたけれど、3万人前後であることに違いはないだろう。そして私は長く、命は「そのひとのもの」という感触から離れられないでいた。
でもこの頃、「ちょっと待てよ」と思ったのである。確かに私の命は私だけの命であって、妻や子や親族・友人・他人の命とは異なる。そうした意味で私の命は私のもの、私だけのものである。だがその「私だけのもの」という観念を、「私の所有物」のような感覚で捉えることにどこか疑問を持ってしまったのである。私の命をあたかも「私の鉛筆」、「私のネクタイ」、「私のカメラ」と同じように考えていいのだろうかと、気になったのである。
命が「私のカメラ」と同じものだとするなら、その処分はまさに私に委ねられている。カメラとしての性能を保持したまま写真撮影することも勝手だし、私はそれを捨てることも分解することだってできる自由な権能を持っている。それは所有権が持つ当たり前の機能であり、だからこそ現代社会は大きく発展してきたと言えるだろう。所有権の権能を、私は「使用」「収益」「処分」にあるものとしてこれまで学習してきた。その権能は所有者にのみに認められているものであり、他者の介入を許さない絶対的なものであることが社会の背景にある。
ただそうした意味に並列して「命」を、同じに理解していいのかが疑問に思えてきたのである。そしてその思いに自分の命を考えるとき、「自分以外の命」との間に大きな違いのあることに気付いた。それは私には名前があることであった。
確かに私はこれまで命について何度も書いてきた。それは尊厳死や自殺や死刑制度などと言った人の命の問題(別稿「
ホームレスが殺された」参照)のみならず、猿や熊の殺処分(別稿「
猿薬殺からの連想」、「
熊の処分」参照)や犬の去勢(別稿「
盲導犬の不妊手術」参照)などへとつながり、更にはそうした延長に細菌や大腸菌にまで命を認めて、人の命と対比するような考え方にまで拡大させてきたような気がする。
その背景には、「人の命」と「猿の命」に共通な命として並列化させる思いがあったのだと思う。それはそのまま、「私の命」を「人の命」として抽象化することでもあった。だがそうしたとき、私は「猿の命」を考えるとき、「猿」という包括化した形でその命を理解しようとしていた。つまり「猿」という生物としての抽象化された命を考えていたということである。ところが、「私の命」というものを考えたとき、「私の命」とは抽象化された「人の命」とはまるで異質なのではないだろうかということであった。
「私の命」は「名前のある私個人の命」なのであって、熊や草花の命や昆虫の命などと抽象化された命とはまるで異なる存在なのではないかと思ったのである。それはもしかしたら、猿や熊やトンボの命を「命」という観念で抽象化し、個別性のない命として把握していた私の驕りなのかも知れない。それはそのまま、例えばアフリカで難民が何千人も飢えで死に、アメリカで何十人もが銃の乱射で死ぬことなども、そのまま単純に「テロによる死」、「デモ隊の衝突による死」、「洪水や地震による死」、「交通事故による死」などと言った、言わば無機質化された死の評価へとつながるものなのかも知れない。
それは同時に「私と関係のない死」でもある。命をテーマにして、その対極にある「死」を論じていながら、それはそのまま無機質な論述でしかないことに突然気付いたのである。それはまさに「私の命」が「名前のある私個人の命」であることを思い知らされ、それはそのまま「だからこそ、私の所有物としての命なのではない」ことを示唆する思いでもあった。それは同時に猿も熊も犬もまた、抽象的な猿なのではなく、死に直面した一匹の猿であり、猿も熊も「己一つの命」であることに気付いたのである。
もちろんだからと言って、それはあくまでも示唆にとどまるのであって、「私の命」が「私のカメラ」と異なることを立証するものではない。単に「人の死」、「猿の死」という一くくりで「命」を包括できるものではないのではないか、との気付きに過ぎないからである。
ところで所有権の形態の一つに「共有」というのがある。一つの物に対して複数の所有権を認めるものである。それは普通、三分の一とか二分の一という形の持分を主張するものである。私はそれを持分の全部について例えば二人の人が重複してその全部の主張ができるような共有は考えられないかと思っているのである。こんな連帯的な共有は現実的には成立しないかも知れない。でも命に関しては、あえてそれを考えたいのである。
それはつまり、「イノチ」そのものに命があると考えてもいいのではないかと言う意味でもある。そしてその命は生き延びることを本能として望んでいると考えたいのである。イノチの持ち主はもちろんその人個人であり、自分だけのイノチである。だから「私のものだから勝手でしょう」が許されることになる。だがそのイノチには全体として重複する同じ大きさのもう一つの命の共有があり、その共有者はイノチの持ち主たる個人の意思を超えて生き延びることを本能とし、個人の身勝手を許さないということである。
私はいま「自殺」を考えるとする。覚悟はとうにできているし、毒薬にしろ暗い川を望む高い橋への到達も用意できている。でも私の身体は恐らく飲んだ毒薬を必死に解毒しようと努力するだろう。水に沈んだ肺は必死になって空気を求めてあえぐことだろう。そうした行動は決して私の意思でコントロールできるものではない。そうした現象はイノチの持ち主たる個人の意思を超えて、イノチにも命があるからなのではないだろうか。
もちろん私は私の意識を混濁させ苦痛を感じなくさせるような薬や状態を選ぶことはできる。だがそれは薬で意識を麻痺させたことにしか過ぎない。私たちは自分の意識だけで「焼身の苦痛」や「水中でのもがきの苦しさ」をコントロールすることはできないのではないだろうか。
もちろん命はいずれ死を迎える。死は確実な到来である。どんなに生きることを望み、死と闘っても、病や怪我や恐らく寿命と呼ばれている様々に負けるだろうことは避けられない。ただ負けるその時まで、命は生きつづけようと我が命を脅かす様々な敵と闘い続けるのだと思う。
宗教で禁じられているからとか、親兄弟や妻子が悲しむからなどと言った、「命はお前一人のものではない」とするような考えからなのではなく、イノチにもまた命があって、その命はどんな場合も生き延びることを望んでいるからなのだと思う。それは生物、「命ある物体」としてこの世に出現したイノチそのものの宿命であり、同時にだからこそ私たちはそれを「命」と呼ぶのだと思うのである。「生き延びようとする思い」、それこそが私たちが命と呼んでいる本質なのではないだろうか。
2013.7.5
佐々木利夫
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