メディアのニュースはそれを読んだり見たりする人の興味を基本に置くものだろう。そうした意味では今朝の朝日新聞(2013.9.23)も例外ではなかった。そしていつものことながら、最近の世の中はどこか私の抱いている世の中の感覚とはどこか違ってきているような思いに駆られてしまった。これはそんな思いの三題話しである。

 JR検査異状放置

 1面のトップ記事はこれである。JR北海道の函館本線でつい先日、貨物列車の脱線事故があった。JR北海道はここ1〜2年連続して様々な事故を起こしており、今回の事故についても社長による謝罪会見が早々に行われた。原因はレールの幅を定期的に検査していて異状があったにもかかわらず修理を失念して放置していたことが原因であり、事故は起きていないが類似の事例が8件見つかったと述べた。ただしこの脱線事故以外に事故はなく、類似の事例はすべて本件と同様の副本線でのことであり本線での異状はなかった、との会見内容であった。

 ところが、この会見の翌日になって、「実は検査異状の放置は北海道内全域の97箇所で起きており、しかも副本線のみでなく本線でも49箇所起きていた」と訂正したのである。レールの幅の誤差は内規で基準値よりも直線部で14ミリ未満、カーブで19ミリ未満と定められており、これに達した場合は15日以内に補修することとされていた。そしてこの内規が事実上守られていなかったのである。

 検査の対応や組織内の監査監督システムなど、原因は様々だろうと思う。現在運輸省の事故調査委員会が監査に入っているから、いずれこの事故の原因のみでなく、今後の内部における検査体制も含めてきちんとした対策が立てられることだろう。それはそれでよしとしなければならないが、それとは別の感じを私は抱いている。

 それがすべての面でいいこと尽くめだとは思わないけれど、職人気質と言うか、組織への帰属意識みたいなものの欠如が根っこにあるような気がしたのである。終身雇用が昔話になり、正規雇用どころか定期昇給や定年、退職金という問題まで含めて、今の時代はサラリーマンから「安定」という基本的な生活スタイルを奪ってしまった。

 そうした社会が、帰属意識の引継ぎ、例えば伝統や習慣などの賃金とは引き離された組織への愛着みたいな気持ちを従業員から奪ってしまったのではないだろうか。それは一面賃金と仕事の対価関係からするなら当然のことかも知れない。9時から5時までの賃金なら、5時に発見したトラブルは明日に回すかまたは上司に報告することで免責され、あとは上司の指示を待つことで足りるからである。

 会社を愛するような風習が、必ずしも利用者や消費者の便宜につながる保証はない。逆に不正を擁護したり秘匿するような行為を誘発することだってあるかも知れない。でも、組織を愛することは基本的に組織をきちんと守っていくことへとつながるのではないだろうか。それは同時に不正をただすことへの意識の変化を従業員へ植えつけることでもあるような気がしている。

 しかもこの記事の翌日、9月24日にJRはこの異常の事実を放置していたことに関して追加の記者発表をした。なんと同じような放置が更に全道で170件が追加されたのである。JRに限らないのかも知れないが、「組織を守る」との意識が、しかも「乗客の人命を守る」との当たり前の意識が職員・従業員の中から消えようとしている。

 中国での薄裁判の判決

 1面の次の記事は、世界経済第二位になった中国で、共産党の最高指導部入りが噂されていた元重慶市党委員会の薄元書記が失脚しその裁判の判決の記事であった。収賄や横領、職権乱用の罪が認定され、無期懲役と政治的権利の終身剥奪、全財産没収の判決が言い渡された。

 裁判の内容がインターネット中継されるなど、世界の話題を呼んだ。裁判の経過や内容について私は批判しようとは思わない。だがこの裁判に対する中国政府の対応を見ていると、「犯罪に対する糾弾」のスタイルはとっているものの、どこか政治闘争の様相が強く見られるように感じられてならない。

 裁判が時に権力により「事実認定」が曲げられて、権力迎合の判断へと進んでしまう例を知らないではない。むしろ、時の権力が「裁判」というお墨付きの下で「抵抗勢力の排除」を画策してきた歴史だってあることも知っている。ただそうした思いにつながるような臭いが、魔女裁判(別稿「生残っている魔女」参照)やナチスの時代のような昔のことではなく、2013年という現代にも残ったままになっているように感じられるのは悲しい。私の抱いている「司法制度こそが私たちを守る最後の砦であるはずだ」との思いが否定されているようで、司法制度にいつも信頼を置こうと思っている私にとって、淋しい記事になってしまった。

 「安く買う」は常識か

 同じ新聞の3面に載った記事の見出しである。記事内容は「私たちは『食べる』という行為を、おろそかにしてこなかっただろうか。『スーパーで1円でも安く買う』ことが、『常識』と思い込んでいないか。少し多くのお金を出し、自分も作り手の一部として参加したカキを、育った海を思い浮かべながら食べる。そんな『プチぜいたく』がやがて、1次産業を支える道につながる」とあった。

 これを読んで、書いた記者は単なる言葉遊びではなく、本当にこんなことを思ったのだろうかと思ったのである。「育った海を思い浮かべながら食べる・・・そんなプチぜいたく」、そんな思いを真剣に抱いたのだろうか。そしてそうしたプチぜいたくを選ぶことが1次産業の発展につながるとして、購入者に実行を求めたのだろうか。

 この記事は東日本大震災の被災地での、カキ養殖などのレポートに関連して書かれたものである。被災地が必死に積み重ねている努力を理解できないではない。またそうした努力を応援したいとも思う。それでもこの記事の内容は、美辞麗句を連ねた言葉遊びになっているようにしか、私には感じられなかった。被災地を応援するために、多少高価でも石巻のカキを買って食卓に並べようと伝えたいと言うのなら分る。でも「育った海を思い浮かべながら食べる」とか、そのことが「1次産業を支える道につながる」なんてことを、私にはとても信じられない。

 「石巻のカキ食べて地元の復興を支えよう」というのではない。食べる行為の中に「産地を思い浮かべる」ような情景を求め、そしてそうした行為が「1次産業の発展につながる」みたいな思い込みが、いかにも嘘っぽく感じられて仕方がなかったのである。

 食べ物の全部に産地があるだろう。米にも芋にも肉も魚にも、口に入れるすべての食材に産地があり、原材料まで遡るなら無限ともいえる産地がある。記者の言い分をそのまま理解するなら、「1次産業を推進するためには産地の思い浮かべなければならない」ことになる。食べ物だけではない。車やガソリンやテレビ受像機や洗濯機冷蔵庫や筆記用具などなど、どんな製品にだって原材料の産地があり製造工場があり、携わった職人がいて、販売する店員がいる。それぞれを私たちが「思い浮かべて消費する」ことが、そうした製品なりの産業を支えるために必要なことなのだろうか。言葉だけの意味として分らないではない。また日本語になっていないなどとも思わない。でも記者の思いは何一つ伝わってこない。

 恐らくこの記事を書いた記者は、カキを通じて「多少高価でも被災地石巻を応援して欲しい。そうすることが僅かでも石巻の発展につながる」ことを言いたかったのだろうと思う。そしてその思いをもう少し広げて、他の被災地の海産物や農産物にまでつなげたかったのだと思う。それでもそのことを「産地を思い浮かべる」だとか、「1次産業を支える」とまで広げてしまうのは、逆に「ひいきのひいき倒し」になってしまっていて、しかもそうした思いを超えて嘘っぽさまで付け加えてしまっているように私には思えてならなかったのである。


                                     2013.9.25     佐々木利夫


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JR検査、裁判、安物買い