自然を人類に対して順応し、恭順し、慰め、鼓舞し、人類と一体となって流れていくもと考えるのか、それとも敵対し、征服し、改造し、技術によって克服し、場合によっては排除すべきものとして捉えるか、二者択一は誤りかも知れないけれど、二つの立場があるように思える。これを単純に農耕民族と狩猟民族の違いとして二分してしまうのは、どこか違うような気がする。

 ただ私が単純に理解する限り、少なくとも日本人は基本的には前者であったような気がする。それがいつの頃からか(それはもしかしたら私の生きている僅かの期間だったかも知れれないが)、急速に後者へと歩みを変えてきたような気がする。それは人の持つ優越感、人であることの驕りや思いあがりがそうさせているのだろうか。

 それは自然の移ろいと言うか変化を「自然は生きているのか」という単純な思いとして捉えるか、それとも「単なる無機的な変化(現象)」として捉えるのかの対立にあるのかも知れない。ただ少なくとも自然は、人の思惑に配慮することはなかったことは事実として挙げられるだろう。

 宇宙に生命があるのかどうか、宇宙を研究している人たちは「ないということのほうがおかしい」と語る。数千万個から数兆個の星々の集団からなる銀河が、7兆個もあると言われているから星の数はまさに想像を絶するほどと言えるだろう。その個々の星は恒星であり太陽のように自ら光を発しているのだから、その数に地球のように恒星の回りを巡っている惑星を加えるなら、私の知識レベルでは無限ともいえる星々の存在を考えなければならないだろう。そうした中に地球に似た温度や水と大気を持つ惑星の存在の可能性を否定することはできないだろう。

 しかも生命の定義もまた複雑である。人間も生命体ならば、多様な動植物な細菌もまた生物であるからである。いやいや、1000年に一回呼吸する岩石があったとして、それを生命でないとは言えないのではないだろうか。SFまがいになってしまうけれど、液体や気体を基礎とした生命が存在するかも知れないし、もしかしたら「意思」という物質化できない思念だけで構成された生命だって存在するかも知れない。また人類と交流できず観測技術などにも引っかからないある種の意思があったとして、それもまた生命でないとは言えないような気がしている。

 だから「地球そのものもまた生命体である」とする考えだって、あながち荒唐無稽とは言えないのではないだろうか。私たちが考えている人類や動植物など、地球上の生命と言ったところで、それは宇宙や地球の時間に比べるならばたかだか風呂場に生えたカビのような存在かも知れないからである。いや、それよりももっと言うなら、生命の存在と言うのは奇跡を越えて単なる偶然であり、宇宙の現象の中の単なる一つの事象かも知れないのである。

 なぜ私がこんなことを言うかというと、私たちはあまりにも「生命という形」(あくまでも動植物などの私たちが無意識に生命と感じている当たり前の生物のことである)にこだわり過ぎているように思えてならないからである。それは自然=生命体という図式で世界を観察しており、生命の存在があたかも奇跡であると信奉しているように思えてならない。山があり、野原があり、海岸がある。そんな風景を私たちは自然と呼び、常に生命と結びつけて考えている。

 例えば月や火星にあるクレータの跡は、たとえ山の形をしていたとしても私たちはそれを自然と呼ぶことはない。またメタンガスが低温と高圧の状況下で液体と化し地表を覆っていても、そしてそれを仮に「メタンの海」と呼ぶことがあったとしても、その海を私たちが自然と感ずることはない。自然とは常に緑に覆われ、魚が泳ぎ私たちが足を濡らすことができるものを指しているからである。

 こう考えていくと、自然とは単なる私たちの思い込みの世界にしか存在しないのかも知れない。恐らく生命と言えども宇宙や地球から見るなら、一つの事象にしか過ぎないものだろう。だからこそ生命は奇跡なのだと呼ぶことは可能であろうけれども、宇宙の始まりとされるビックバンも太陽系を含む銀河の発生も、更には地球が存在することも、そこに水があり地中のプレートが地表の皺を作りその皺の高い部分を我々が山と呼ぶ現象も同時に奇跡であろう。

 でも私たちは、パンゲア(別稿「動く大地」参照)やエベレストの存在を奇跡とは言わない。単なる物理現象として理解しているに過ぎない。同様に札幌に標高300数十メートルの三角山と名づけた小山があることだって、その山へ登る途中に急坂があり窪地が存在することなども奇跡と感じることはない。それは単なる事実であり、単にそこにあるものとして理解しているからである。

 私はそれを奇跡と呼ぶべきだと強要したいのではない。ただ生命の発生を奇跡と呼びたいのならば、地面が盛り上がっていたり凹んでいたり、空気があったり太陽から三番目の惑星になったりしたことも、私の目の前に小石があることや小石が風に砕けて砂になったことなども、すべて奇跡と名づけていいのではないかと思うのである。

 ことさらに生命だけを奇跡と捉えるような風潮、そして地球の変化に自然と名づける生命の形態を重ねてしまうことに、どこか人類の独りよがりが見え隠れしているように思えてならない。恐らくいずれ数万年を経て、地球からは私たちが生命と名づけている人間も動植物も消えてしまうことだろう。そしてさらに数十万年を経て、生物が残した構造物や遺跡なども含めた痕跡そのものすら消滅してしまうことだろう。奇跡と呼んだところで、いずれ宇宙からは地球で起きた現象はおろか地球そのものの存在なども跡形なく消えてしまうに違いない。

 だから生命や海や山の存在を、奇跡と呼ぶ独りよがりを許してもいいではないかと思わないでもない。奇跡の地球の奇跡の生命、そんな独断を許したところで、宇宙も、なんなら地球そのものも、そうした思いとは無関係に悠久の時に飲み込まれていくことだろうからである。そこには単なる現象と事実が積み重なっていくだけである。単に地球がこれからも太陽の回りを数百万回、数千万回、数億回回るだけの話しなのではないかと思うからである。
 それでもなお私は、命だけを奇跡として捉えることには抵抗を感じている。命といえども単なる事象、事実の積み重ねに過ぎないのではないかと思っているからである。


                                     2013.7.4     佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



自然の捉え方