155 いじめと後悔 メモ 時期不明
「いじめは楽しいし、ストレスを解消させる。しかもいじめたことなんて、時が経てばすぐに忘れてしまう」。いじめる側の論理である。
156 理想は死んだ メモ 時期不明
NHKのドキュメントは一人のノーベル賞学者の核廃絶を通じた世界平和への壮絶な一生を報告していた。番組は一生を核廃絶に捧げた男の物語である。だが、これは一つの挫折の歴史である。世界は彼が望む考えとはまるで違う方向へと進んできた。「理論の核」は「使える核」へと進んできた。米ソ対立の中での核開発は、英、仏、中と広がり、それは科学者の協力のもと果てない広がりを見せている。
157 破壊 メモ 2006.11.5
「自らの力で切り拓いた大地」と声高に言う。だがそれと森林破壊、自然破壊とはどこがどう違うのだろうか。
158 命の意味 メモ 2006.11.5
「生涯を共にする命です」、牛の出産に立ち会った酪農家の一言である。でもこの場合の命とはメスだけのものである。オスはそのままソーセージの材料として処分されるからである。性の分別、区別
159 四つ子ちゃん メモ 時期不明
「四つこちゃん、みんないい子で育ってます」、テレビコマーシャルである。「ブロッコリーは残さない」、「箸で遊ばない」、「足踏みしない」・・・、お母さんの叫ぶ声。四つ子である。好き勝手にさせたら、食事そのものが崩壊するかも知れない。だからお母さんの命令はよく分かる。
160 命の選別 2006.6.9
釧路、春採湖の「ウチダザリガニ」(外来種)が湖畔の水草を食べたり、在来種を駆逐して、いわゆる生態系に影響を与えていることの実態調査が始まったという。琵琶湖のブラックパスなどなど、在来種が駆逐されそうになる例は多い。・・・人は無意識にそうした命の選別をしている。
161 倫理懇談会 メモ 時期不明
「第50回 マスコミ倫理懇談会 全国協議会」が9月28日、29日に開催されたそうである。テーマは「問い直そう!
メディアの価値と役割」で、「読者の興味」という言葉こそなかったけれど、相変わらず「あるべき姿の模索」に終始し、「報道の使命」、「節度ある取材」、「事前規制は各社の了解」なとの言葉が空虚に踊っている。
162 権力の増殖 メモ 2006.1.6
ヒトラーは全部を知っていたはずがない。時代劇のテレビでしか知らないけれど、殿様が発する「よきに計らえ」という言葉がある。それですべてが決定する。確かにヒトラーに権力も権威もあった。でも歴史の伝えるすべての罪業を彼が知っていたとは思えない。権力とはそういうものだからである。
163 鯨肉の思い出 メモ 2006.10.12
「あのおいしかった鯨肉の味を伝えられるか」。懐かしさを別にすれば、そんなにうまいなんて思ったことはない。戦後、色々な肉が食用になった。馬は車代わりの動力だったから、肉屋にはいつも売っていた。家庭ではウサギやヒツジを飼い、毛皮の加工もさることながら、目的は食うことだった。その肉も食べたことは思い出しても、その料理方法も味も今になっては記憶にない。むしろ、沖縄で食べた山羊の肉の「オツユ」のイメージが記憶にあるくらいである。
164 ナイです。全然ナイです。 2006.10.12
景気回復期間が平成14年から2年9ヶ月に及び、「実感ありますか」と問いかけるアナウンサーへの街行く人の反応である。だがどこかマスコミの意図した編集を感じる。いざなぎ景気に並んだとする政府発表があった。いざなぎ景気とは昭和40年から45年まで57ヶ月続いたという。株価は9千円台から1万6千円台へ、経済成長率11%台から2%台、企業収益2.7倍から1.8倍、所得2.1倍からほぼ横ばい。企業そのものは利益を上げているが、家計にまで及んでいない。「景気回復の実感」とは、いったい何をいうのだろうか。
165 ちびていくクレヨン メモ 2006.9.4
「黄色いクレヨン」、回りを美しくさせていくたびにちびていく。豆つぶになったクレヨンは・・・。NHK教育テレビ朝の子供の歌番組での「ちいさなクレヨン」という歌の歌詞である。
166 誓い メモ 2006.12.5
「人間の誓える限りの誠実をもって誓います」(テレビ 「シャーロックホームズの冒険」より)。
167 無実 メモ 時期不明
例えば「無実の者を死に追いやることは許されない」と人は言う。そのことを否定はしない。いやむしろ、100%まともである。だがそれは「戦争で死んだ一般人(?)」から「千鳥足で車にはねられた飲んだくれ」、更には通学途上の小学生から幼稚園児にまで適用される正義である。だが、この言葉は冤罪による死刑だけに適用されるのだと思っていいのだろうか。私はこの「無実の者の死」という言葉を聞くたびに、同時に「なんの罪もない者がどうして殺されるのか、どうして死ななければならなかったのか」という言葉が重なってきてしかたがない。
168 昆虫標本 メモ 2010.8.29
展示館の館長が子どもたちにこんな風に話しかける。「標本は歴史になるのです」。聞いたとたんに「嘘だ」と思った。子どもたちは標本箱と虫取り網を持って野山へ駆け出して行った。きっと多くの昆虫が捕らえられ、殺され、虫ピンで手足を縫われて標本箱の中で乾いていくことだろう。それが歴史なのだろうか。それを歴史だと子どもに教えることがどんな意味を持つのだろうか。
私だって小学生の頃、昆虫採集や羊歯類を中心とした植物採集をして標本を作り学校へ出したことがある。夏休みの宿題かもしくは自由研究みたいなものだったのだろう。それなり真剣に取り組んだ記憶が今でも少し覚えている。それでは私の作った標本は、歴史になったのだろうか。恐らく多くの生徒の作品と同様に手許に返され、歴史どころかごみとして消えていったのではないだろうか。
雑記帳始末記(13)へ続きます
2013.3.10
佐々木利夫
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