242 第一次世界大戦とは? メモ 時期不明

 第二次世界大戦だって理解できていないんだから、ましてや第一次なんぞは言葉でだけ知っている程度の知識である。それでもロマノフ王朝だのオスマントルコだのが登場し、国王による傭兵が国の軍隊へと変革した時代だとなど言われると、国家の成立とはなんなのだろうかと、少し興味が湧いてくる。

243 「自分」とのギャップ 新聞切り抜きとメモ 2011.8.12

 「横浜市教育委員会による中学校の歴史・公民教科書の採択の報を、横浜市の中学教員だった一人として情けなく腹立たしい思いで受け止めている。・・・我が国近年の『教育改革』は、教員不信を前提にしているといっても過言ではなく、教科書採択から教員の声が排除されてきた・・・。しかし、『教室で使う教科書くらい、自分で選びたい』というそれだけのことがなぜ認められないのか。・・・」(朝日新聞、読者投稿、教科書採択に教員の意見を、山形県 無職男性62歳)。
 この意見は分りすぎるほどよく分かった。ただタイトルと投稿者の思いとのギャップにもまた、投稿者本人の思い込みの強さを感じてしまった。そこには「生徒の」とか、「私たちの」など、自分を離れた位置からの視点が、少しも感じられなかったからである。

244 金で買えないもの メモ 時期不明

 「金で買えない大切なもの」という話をよく聞く。多分その大切なものの中には愛情だとか、優しさ、夢や信頼などなどが無数に列挙されるだろう。だが私には、これに続く次のような質問、「どうしてそれらを金で売買してはいけないのか」のような思いを生むような気がする。そして少なくとも私には、その質問に対する答えを知らない。「金で何でも買える」と断じることは勇み足になってしまうかも知れないけれど、それでもなお、「平和や飢餓や穏やかさ」などの多くの望みが、金で買えるのではないかと頭のどこかが囁いている。

245 見る男と見られる女 書評切抜き 時期不明

 「・・・著者(女性作家ナンシー・ヒューストン)は言う。女が『産む性』であるというのは生物学的に動かしがたい事実だ。そこを無視して男女に違いはないと言うのはまやかし以外のなにものでもない。・・・著者は『見る男』と『見られる女』の関係を、自分の個人史も挟み込みながら歴史を追って詳細に分析してゆく・・・」(浅野素女の書評、朝日新聞 パリの書店から)。

246 国旗に一礼 新聞切り抜き 2011.9.21

 「入学式などで、国旗に向かって一礼する。すっかり見慣れた光景が、長野県中川村の曽我逸郎村長あえてそうしない・・・」。
 「私が国旗に礼をしない理由を端的に言えば、『こういう場では礼をしなさい』 『それが大人だ』という雰囲気がいや、ということです。目に見えないプレッシャーは危険な気がします。『まあいいや、これくらい』と従うことが、いやな空気をつくり、長い目で見たら怖い結果につながりかねない」(朝日新聞、オピニオン)

247 避難地域の安全基準 新聞切り抜き 2012.9.17

 「政府のあいまいな安全基準が不信を助長した。校庭の放射線量(1年あたり)、政府(文部科学省) 20ミリシーベルト、福島県 各学校は除染目標を 1ミリシーベルトなど。学校給食の放射能(1`あたり)、政府(厚生労働省) 100ベクレル、福島県 46市町村が独自基準 平均約17ベクレル。・・・『1ミリなんてナンセンス。そんな厳しい基準を作ったら、2ミリでも3ミリでもためだとなり、みんな逃げまどうことになる」。当時、政権中枢にいた関係者は、『事態の沈静化』を優先した政府の思惑を打ち明ける。・・・事故から一ヶ月余りたち政府は、原発から20キロ圏の『警戒区域』や、放射線量が年20ミリシーベルトを超える恐れのある『計画的避難区域』の住民を強制的に避難させると決めた一方で、それ以外は強制避難を広げないようにしていた。だが・・・栃木県や千葉県などでも局所的に線量が高い『ホットスポット』が見つかる。慌てた政府は・・・新たに『特定避難勧奨地点』に指定した。・・・ただ、避難するかどうかの判断は住んでいる人に委ねられた。政府の『その場しのぎ』の姿勢に、住民の不満は高まるばかりだった。・・・」(朝日新聞、限界にっぽん 第一部)

248 馬の膝 メモ 時期不明

 テレビでみた話である。馬の足は人間と比べて関節と関節をつなぐ骨の長さが部位により異なっており、一見膝のように見える馬の関節は実は第三関節、つまり足首なのだそうである。でもだからと言って「膝でない」として否定するのとは少し違うのではないかと気になった。解剖学的な膝の定義をここで言いたいのではない。ただ私たちは例えば「歩くときに前方に屈折する関節部分」であるとか、「前かがみになるときに身体を支える作用を受け持つ部分」などを「膝」と呼んでいるような気がしている。科学的には「第二関節=膝」が正当なのかも知れないけれど、それをわざわざ取り上げて膝の定義を私たちの感覚的名イメージから補正しようとする意図がつかめない。

249 痛くないですか、どうかお元気で・・・ メモ 2011.8.18

 常陸宮ご夫妻が東日本大震災の被災者を見舞うため、福島市の仮設住宅と高齢者施設を訪れたとの報道を見た。そして被災者に対してご夫婦で「痛いところはないですか」「どうかお元気で」と声をかけ励ましていた。こうした行動は天皇陛下や他の皇族もやっているし、そのことに反対だというのではない。ならばどうすればいいのだと聞かれると返事に困るのだが、どこか言葉だけの繰り返しにしっくりこないものを感じてしまった。真心のこもった言葉ならそれだけでいいではないかとの理屈も分らないではないが、例えば何かの不祥事が発生するたびに監督者とか社長だとかがテレビカメラの前に現れて、「再発防止を徹底させ、信頼回復に努めたい」との言動を繰り返すパターンにどこか重ねてしまう。「どうかお元気で」と「再発防止に努めます」とは発言者が違うのだから、言葉にこもっている心意気も違うとは言えないだろう。言葉としてはどちらも「お座なり」といえばお座なりであり、真剣にそう思っていると言われればそれを否定する根拠はないからである。

250 ひもじさと恋 メモ 時期不明

 「ひもじさと 寒さと恋をくらぶれば、恥ずかしながらひもじさが先」(郡山和世 噺家カミサン繁盛記P42)

251 知識と記憶 メモ 時期不明

 どんなに下らないことでもいい。「自分が考えた」という事実のあることを否定はしない。例えばそれが昼飯に何を食おうかだとか、朝のテレビを見ていての「この政治家の考えは間違っている」でもいいし、場合によっては「ガン完治薬を発見した」みたいなすさまじい世紀の発見でもいい。オリジナルというのは、自分にとっては大発見だけれど他人にとっては何の意味もないような事柄もあるだろうし、場合によっては世界を変えるような発見であることだってあるかも知れない。でも、そうした思いはどこまでオリジナルなのだろうか。その世紀の発見は、その人が日本語で考えたものなのだろうか。その人がそんな素晴らしい発見につながる手段となる日本語を獲得したのは、その人のオリジナルなのだろうか。「腹が痛い」とうめく。「痛み」を実感しているから「痛い」と叫ぶ。でもその痛みはどこまで実感として記憶していられるのだろうか。

252 諮問と答申 メモ 時期不明

 それが住民の声であり国民の意見の集約だなんて、いつ誰が勝手に決めてしまったのだろうか。

253 私が私であることの証明 メモ 時期不明

 考えてみると自分であることは自分が一番よく知っているはずなのだが、そのことを他者に認めさせるために第三者の発行した「証明書」なるものを利用しなければならないことが多い。他者イコール第三者なのだからそれはそれで分らないではないけれど、ちょっと考えてみると奇妙なことのような思いのしないでもない。


                                  雑記帳始末記(20)へ続きます


                                     2013.4.6     佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



雑記帳始末記(19)

自作のホームページに雑文を発表してから10年になる。資料として作成したメモや切り抜きなどは発表したつど処分しているが、作品にできなかったものが残ったままになっている。それは作品にするだけの力がなかったことを意味しているのだが、それでも私の感性に訴える何かを含んでいたことだけは事実であろう。このまま朽ちさせてしまうのもどこか忍びないものがあり、処分する前にここへ刻むことにした。