327 弱者としての人間 メモ 2005.1.3

 年末にテレビで「人類大進化」という再放送らしき特集を見た。「人は弱いから生残ってきた」がテーマだった。

328 盛者必衰 メモ 2005.1.3

 恐竜は2億年から6千万年前までの約1億数千万年も繁栄を続けた。そして大絶滅の時を迎える。盛者には変化を忍ぶ必要がない。自らを環境に適応させるための努力の必要がない。うっそうたる熱帯雨林といえども、2050年には消滅するとの意見もある。

329 メタンガスと牛のげっぷ メモ 2004.12.29

 そんなバカな!!と思う。たかがゲップである。世の中には人間よりも牛が多いというジョークの通じる町のあることは知っているし、そのジョークが冗談を超えて存在していることも北海道に住む私には理解できる。でもそれでも私は思うのである。たかがゲップである。私だって食後にゲップくらいすることもあるが、そのゲップが原因で地球温暖化が進むなど考えたこともない。私のゲップで地球が滅ぶなんてことがあるなら、それこそジョークである。どうもこの話は人間のゲップではなく、牛の反芻胃から出るゲップにメタンガスが含まれていることが原因らしい。このことを真剣に考えている学者がいて、二酸化炭素よりも4倍も地球温暖化の効果を持っているそうである。

330 法律用語の有名、無名 メモ 2004.11.10

 法律用語に無名抗告訴訟というのがある。行政事件に関する用語なのだが、この言葉を始めて聞いたとき、「無名」の語を文字から理解するのではなく、「有名」の反語だと思ってしまった。それはむしろ当然なのだろうと思う。法律なんぞ生活とはほとんど無関係な身にしてみれば、「無名」とはまさしく「名もなく清く美しく」(本当は『貧しく清く美しく』だとも聞いた)と同じ意味だと思うのが当たり前なのだろう。
 ところで無名抗告訴訟の「無名」とは、そうした訴訟形態が成立する可能性があるにもかかわらず法定されていない(つまり法律的にはまだ名称が決められていない)という意味での「無名」である。

331 東海林太郎 メモ 2004.11.4

 ほんの僅かしか見たことはないけれど、モノクロの彼の映像は黙っていてもすぐ分る。歌よりも姿勢というその姿は、なんと言っても一度見たら忘れられないものがある。別に私は歌手が歌うときに、直立不動の姿勢をとれといいたいわけではない。でもテレビは歌手に歌以上に動きを要求しているのだろうか。演歌は目を閉じ、うつむき、祈り、涙ぐみ・・・、アイドル集団は舞台狭しと跳ね回る。だからというわけではないのだが、私は東海林太郎の直立不動で歌う姿がどこか好きなのである。

332 霊感商法 メモ 2004.10.25

 壺だの印鑑だの水晶のネックレスだのと、それを持つと幸せになると言って売りつける商法が後を絶たない。しかし、最近のブランドもののハンドバッグだの靴だのに身をやつしている世の女性やそれに群がる男の姿を見ていると、シャネルもグッチもフェルガモも、みんなみんな霊感商法ではないかと思ってしまう。価格は需要と供給で決まると経済学の需要曲線は教えているけれど、仕掛けられた価格設定にはどこか霊感商法や詐欺の臭いがする。そう言えば「生産調整」とか言って、豊作豊漁の野菜や魚を売らずに廃棄してしまうことにも、どこか胡散臭いものが残る。人はどうしてこうもブランドに群がるのだろう。人は自分を支えてくれる虚栄をどうして求めてしまうのだろうか。

333 老後という言葉 メモ 時期不明

 老後は「老」と「後」という二つの言葉の合成語である。パターン化された「老」のイメージとは?。「老い」とは何か。ハチャメチャに張り切ることではない。だからと言って、縁側で背中丸めて渋茶を飲む夫婦の姿で代表されることでも決してない。色気喪失、朽ち果て、水気のなくなることが「老いる」ことなのか。人は死ぬ。だから「死」を目の前に置くことが「老い」なのか?。まず考えてみよう。「老い」は成長しないと、誰が決めたんだ。

334 もし人生が・・・ メモ 2004.9.24

 もし人生が驚くことだとしたら、驚くことはたくさんある。小さくてもその驚きは私にとっては大きいし、近いし、当たり前に存在している。

335 「よぼよぼ」と「よちよち」 メモ 時期不明

 よぼよぼ、よちよち、そしてせかせか。すたすた、てくてく、すたこら、とぼとぼ、のろのろ、ふらふら、とことこ、ふらふら、よたよた、ちょこちょこ・・・

336 露天風呂 メモ 2004.8.14

 露天風呂とは実はもっとも安上がりの天然そのものであり、浴室であるとか浴槽といった設備なしで入浴を楽しむのが本来の目的だったのだろう。それがいつしかわざわざ金をかけて作り上げるしろものになってしまった。だからそこには必然性も必要性もなく、自然というイメージからまったく切り離された宣伝用の露天風呂が跋扈(ばっこ)することになる。露天風呂とはわざわざ作るものではなく、温泉が湧いているけれども入浴するための設備や装置なしで楽しみたい、入浴したいときにそのまま入浴できる場であったはずである。それが今では少しオーバーに言うなら、露天風呂のない温泉旅館は客が来ないとまで言われるように変化してしまった。もっとも、客が客なんだから提供する側もその客に合わせて露天風呂を作るという安易さは、主客ともどもと言うべきかも知れないが・・・。

337 ニューヨークの結婚式 メモ 2004.6.28

 外国のテレビドラマのストーリーである。
 私がニューヨークで結婚しようと思ったわけ。そして教会へ行ったら、そこの受付が誰かと電話中で、「保険がどうのこうの・・・」と話しているのが聞こえてくるわけ。そのうち電話をかけながら、「結婚するの?」と無言で聞いてきたの。もちろん受話器を持ったまま。・・・、そしたらすぐ牧師が入ってきたので見たら、それは受付の男なの。そしたら彼は私の彼氏に「結婚するの?」と聞き、私にも「結婚するの?」と聞いたの。私たちは「はい」と言ったの・・・。その間45秒、それで終わりなの。そしてまた彼はさっきの電話の続きを始めたの。変でしょう。バカにしてると思うでしょう。でも、結婚ってこんなもんだよな、こんな結婚のほうがいいな・・・、と私思ったの・・・。

338 私が中心 メモ 2004.6.22

 自殺が願望なのか逃避なのかよく分からないけれど、そうした人々とそうした思いを思いとどまって欲しいと願う人たちが交流するメールマガジンがあり、私も読者になっている。そこでの最近の話題が、ある人の「私の必死の訴えにメールマガジンの主催者が応えてくれない」という投稿をきっかけとするものであった。どちらかというとそうした訴えに否定的な投稿が多かったのだが、ただ死にたいと思っている(同時にそれは助けて欲しいという願いでもある)人にとって、どんなにわがままだろうと理不尽だろうと、自分の命は世界と同じ意味を持っているんだから、「私を無視することは、そのサイトでの私の存在がないのと同じだ」と感じたとしても、あながち無茶だとは思えない。自分が存在しなくなっても社会はそのまま存在し続けていくだろうことは、誰だって常識で分る。これまで何億人、何十億人が死んできたのだし、そうした死を乗り越えて人類は存在し続けてきたのだから・・・。しかし翻って考えてみると、自分にとっての社会は自分の死とともに存在しなくなるというのも、これまた理解できる現実である。自殺というのはだから、こうした意味での不存在を望むということなのだろう。


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                                     2013.4.23     佐々木利夫


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雑記帳始末記(26)

自作のホームページに雑文を発表してから10年になる。資料として作成したメモや切り抜きなどは発表したつど処分しているが、作品にできなかったものが残ったままになっている。それは作品にするだけの力がなかったことを意味しているのだが、それでも私の感性に訴える何かを含んでいたことだけは事実であろう。このまま朽ちさせてしまうのもどこか忍びないものがあり、処分する前にここへ刻むことにした。