364 末期ガン メルマガからのメモ 2003.12.18

 以前、定期購読していたメルマガに投稿されたメールである。
 「クリスマスに会いに行く予定の 海の向こうの末期ガンの彼は
  今朝から意識不明、もう何の反応もない あと数日なのに会えないかも知れない・・・
  死にたいと大騒ぎしていた私が、苦しんで安楽死したいと漏らした彼に
  お願いだから死なないでと叫んでいた
  末期ガン治療で うつ状態にモルヒネ中毒になった彼に向かって
  お願いだから私が行くまで待っていてとメールを送り続けた・・・
  11月14日のメールを最後に彼からのメールは途絶えた
  私が彼の所に到着するのは24日早朝
  生きて 死なないで
  私は最後に彼のぬくもりを感じたい      」
 このメールには、多くの嘘があると思う。でもなんて悲しいメールなのだろう。なんて悲しい嘘なんだろう。多分最後の一行は嘘だ。それでもそう言わなきゃならないほど、追い詰められた悲しみがやっぱり私の心へ届いてくる。そしてこの後、12月25日の配信では、「12月20日 5時45分に彼は死んだ」とあった。

365 牛、鯉、鶏と安全宣言 メモ 2004.1.13

 三題話めくが、何だか最近の食い物にまつわる話はどこか変だ。以前は知らずに口に入れていたのか、それとも最近の検査技術の発達で分るようになったのか、それともそれとも、新しい病気の蔓延なのか、その辺は私も理解はできていない。しかし、狂牛病などと名称からしておどろおどろしい病気が牛丼チェーン店やハンバーグ店などを直撃しているし、我々庶民にしたところでスキヤキを中止して寄せ鍋にしようかと迷うこともある。それに最近は鯉ヘルペスだの鳥インフルエンザだのが我々を脅かすようになってきている。鳥インフルエンザを伝えるテレビや新聞は、その感染ルートは不明としながらも、「海外でウィルスに感染した鳥の糞が何らかの形で養鶏場に入りこんだか、感染した渡り鳥によってウィルスが運ばれたのではないか」と報道する。そしてこのウィルスは「人から人への感染はなく、鶏肉や卵を食べることによる人への感染は確認されていない」とも伝えている。
 こうした情報だけで、こうした言い分の変なことが分かる。「感染の原因」が鳥の糞とするなら、そのルートを確かめて切断しなければ「感染の心配がない」とどうして言えるだろうか。ましてやそのルートに渡り鳥が関係しているのなら、「心配ない」など論外である。更に「過度な警戒は不要」とも言っているが、その根拠は何なのだろうか。こうしたメッセージは、聞いた人に何を伝えたいのだろうか。

366 イラクでの邦人人質事件と自己責任 メモ 時期不明

 イラクで日本人が誘拐され、犯人側から「イラクへ派遣されている日本の自衛隊の撤退」の要求が突きつけられた。これに対して誘拐された邦人の家族から当然のことのように「政府による自衛隊の撤退を求める」との要求がなされた。どうもそのことに納得いかないでいる。息子や娘を「なんでもかんでも取り返して欲しい」と願う気持ちの理解できないではない。たとえ「世界がどうなろうと、私の娘だけは生残って欲しい」と考えたところで、その思いを批判しようとは思わない。ただ少なくともその前提として「理屈も常識も無視している理不尽な要求であることは重々承知しているが、それでもなお・・・」の思いがあるはずだし、あって当然だし、それを伝えた上での親の願いなのではないかと思うのである。政府は昨年来のイラクからの退避勧告に加えて、今年だけで13回もの注意喚起の情報を流して民間人の退去を求めているという。人質3人は、報道カメラマンとして、またNGO活動として、まあ言ってみれば自分なりの正義の行為としてイラクに赴いたのである。それならばこの3人は、事件に巻き込まれたのではない。自ら危険を承知の上で、あえてその渦中に身を投じたのである。自らの危険を避けることが可能であったにもかかわらず、あえてその危険に己の身をさらしたのてある。
 「命は地球より重い」から、そのためにはどんな障害も乗り越えて人命を救済するためだけに世の中の全部が動くべきだとする考えは、こうした考えへの反論をあたかも「命の軽視」に結びつけて許さないとする頑迷さに結びつきやすい。こうした考えこそ「命を人質」にとった無謀な論理であると、私は思う。

367 ハンセン氏病宿泊拒否事件 メモ 2003.11.20

 この病気の患者であることを理由に旅館が宿泊を拒否した事件があり、裁判でその違法が指摘されて旅館が謝罪した。被告側は謝罪文の受け取りを拒否し、「紙切れ一枚ですむ話ではない」との談話を発表した。この報道を見て私は、この被告の態度は一種の脅迫ではないかと思った。宿泊の拒否は間違った行為だったかも知れない。でも私には「拒否した側の拒否する心」を、拒否された側はちっとも理解していない、理解しようとしていないと思ったからである。このままではハンセン氏病への社会の理解は、マスコミ自身も含めて「マスコミで叩かれるから、要求を受け入れる」ことだけで決着がついてしまい、正しい意味での「理解」へは進んでいかないことに誰も気づいていない。

368 何をしてても メモ 2003.10.7

 何をしてても歳は自然にとってゆく。だからと言ってその「過ぎていく時間」を有意義に使うべきだなどと思っているわけではない。ただ、何をしているにしても、歳っていうのは自然にとっていくもんなんだということである。

369 生きることと死ぬことと メモ 2003.11.9

 いつの間に生まれるのも死ぬのも、病院任せになってしまったんだろう。

370 命の順番 メモ 時期不明

 命って何なのかを必ずしも分っているわけではないが、「大切にされる命」、「大切にされない命」という区分もどこかにあるような気がしている。自分にとって他者の命が均質でないことは理解していたが、社会にとってもそうした区別や差別があることに気づく。老人病棟での寝たきり患者の姿を見る機会があった。社会とは「自分のことは自分でできる人間」を中心にシステム化されているように感じられた。バスやJRなどの交通機関が「歩けない人でも気楽に旅行できる」ことを前提にシステム化されていると考える人がいるとしたら、それは多分大きな誤りである。

371 嫉妬 メモ 時期不明

 「嫉妬は手の届きそうな場所に降りてきたところに起こる。嫉妬の正体は、いわれのない被害感、手前勝手な不遇感にある」(藤野美奈子 考えることで楽になろう P81)。
 昔は「分を知る」ことを知っていたから、かけ離れた事象には距離を置くことをわきまえていた。スターはスターなのだから、手が届かない存在だからスターなんだとと分っていた。だがテレビはそのスターを大量生産し、地上に引き降ろした。その結果、食事もせずトイレにも行かなかったはずのスターが、実は自分と同じ人間であると分った。そのときから、人は何にでもなれると錯覚するようになった。

372 個性的 メモ 時期不明

 人はよく個性的でありたいと願うけれど、それはより美しくとか、より強くなどのプラス方向に働く場合の個性についてだけである。だとすれば、個性なんてくそくらえ・・・だ。

373 障害者のわがまま(?) メモ 2003.12.3

 障害者が自分が障害者であることを受け入れないと、ものごとは解決しないのではないだろうか。駅にエスカレーターを設置し、歩道に段差をなくしても(もちろんそうした努力は必要だけれど)、すべての道路が動く歩道に変わるまでそうした欲求は続くのではないだろうか。これは障害者だけのことではない。人はそれぞれ異なるのだから、そうした違いを差別と言って被害面だけを強調したって不満が募るばかりだろう。人はそれぞれに違う。体力も健康もお金の残高も能力も、もっともつと美醜、要領、機転、ユーモア・・・esc。どんな人だって「どうして自分だけが」という問題を抱えている。そうした違いを不合理だと思う、容認できないと思う気持ちも分らないではないが、そこから抜け出さないと、こうした問題は解決しない。

374 臆病 メモ 時期不明

 「臆病」って、なんかいい言葉だね。

375 成功体験 メモ 2003.7.19

 「小さな成功体験の積み重ね」が必要。これが当たり前の人間・・・。

376 生物の要件 メモ 時期不明

 代謝、生殖、変化。もう一つ 個食、一緒に食べる、仲間と分ける

377 泣く メモ 時期不明

 泣いている。泣く。泣かないさ。泣いてもいいさ。泣くのはよそう。・・・だから急がないで欲しい。


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                                     2013.4.30     佐々木利夫


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雑記帳始末記(29)

自作のホームページに雑文を発表してから10年になる。資料として作成したメモや切り抜きなどは発表したつど処分しているが、作品にできなかったものが残ったままになっている。それは作品にするだけの力がなかったことを意味しているのだが、それでも私の感性に訴える何かを含んでいたことだけは事実であろう。このまま朽ちさせてしまうのもどこか忍びないものがあり、処分する前にここへ刻むことにした。