378 使命感 メモ 2003.10.24

 @ がむしゃらな自己陶酔ではなく、周囲からの間接的な圧力、周りの人々からの思い込みの圧力(かくあるべしという精神的な強制)
 A たゆまない研究、冷静な分析、目的達成への合理的な手順
 これまでは@が余りにも要求されていた。命がけというのは、もしかすると誤りではないか。そしてPTSD(心的外傷症候群)にとらわれて、人はAまでをもなくしてしまう。

379 かゆいところに手が届く メモ 2003.10.17

 今日のNHKクローズアップ北海道(19時30分から)は、「観光の隙間を狙う」というタイトルで、「かゆいところに手が届く」を取り上げていた。なるほどそこに観光のニーズを求めるという意識が分らないではない。でも隙間を埋めていくということは、顧客による選択の余地がどんどん狭まっていくことを意味しているのではないか。番組に登場する人物はこうした狙いをベンチャーと言い、大企業に対抗できるジャンルだと位置づけている。
 隙間がなくなったら・・・、いや恐らく隙間のなくなることはないのだろうが、その隙間がどんどん小さいものになってしまう。例えば「札幌の一日観光」と題して100も200もの選択肢を作り、更に「もっともっとあるよ」と言われたら、人はどう選択したらいいのだろうか。観光に限らない。人が選ぼうとする選択肢の中から隙間がどんどん減少していったら、それは結局自分が考えないで他人の考えの中から選ぶことに過ぎなくなってしまうのではないだろうか。そうしたら人は努力しなくなるのではないか。自分で考えるということを放棄してしまうことになるのではないか。それは同時に忍耐の喪失でもある。きらめくばかりのメニューを並べられるということは、自分で考えないでそこから選べと無理強いされていることでもある。

380 どうして私だけ メモ 2003.8.26

 病気や災害や事故などに遭遇した人たちにマイクを向ける番組を見ていると、その人たちの言葉中に必ずと言っていいくらい、「どうして私だけが・・・」がある。

381 ガッコの先生 メモ 2003.8.30

 10年も前になるけれど、私が入居しているマンションの管理組合の役員をやったことがある。役員の中に小学校の先生がいた。新築マンション最初の管理組合でもあり、月に何度か集まって今後の運営や修繕積立金をどうするかなどについて議論した記憶がある。そうしたとき私は役員仲間の学校の先生という職業とその考え方の違いに驚いたことがある。税務職員を数十年も経験していた私は、私なりに社会の常識とかあり得べき考え方についてそれなりの思いを持っていた。だがその先生とは驚くほど考え方が違っていた。時に反論し、時に説得し、時に相手の意見に妥協しつつも、まるで異邦人と話しているような気持ちになったことを記憶している。そして思ったのである。学校の先生というのはまさにエイリアンであり異邦人だと。そして同時にだからこそ、白紙のような状態で成長していくわが子を含めた子供たちを、丸ごと先生という職業に委ねることができるのかも知れないと・・・。

382 削蹄(さくてい)師 メモ 2003.10.18

 牛の削蹄を職業としている人を紹介するテレビ番組を見た。彼は牛の蹄を削りながら、「牛が一番喜んでいるはずです」とにこやかに話していた。でも牛は本来自分で自分の蹄を削れないはずである。それが自然の姿である。だから削蹄師はこの仕事を「牛のためではなく飼い主のためにやっているのだろう」と思ったのである。それを牛が喜ぶだのと言うのは欺瞞ではないかと思ったのである。

383 科学と倫理 メモ 2003.10.16

 データ隠しの背景→学会の倫理規定、大学の倫理教育、技術者の倫理とは・・・。
 なぜ人は隠したがるのだろうか。右か左かを聞かれたとき、答えが決まっているものがある。例えば「脱税はいいか悪いか」、「人を殺すことは・・・」、「盗むことは・・・」、「戦争と平和とは・・・」などなど・・・。こんな質問を受けたとき、人はどこまで本心を答えられるのだろうか。そして口から出たその答えは、どこまで正しいのだろうか。

384 過剰雇用 メモ 2003.7.17

 統計用語に過剰雇用というのがあるそうである。とても語呂のいい言葉である。でも考えてみたらこの言葉、「お前は必要ないからクビにするよ」と言ってるのと同じことだよね。統計の残酷さはこんなところにも表れる。日銀総裁はこの言葉をあっさり言うけれど、人が生きているのはパーセントではない。失業率が5%と5.1%とではちっとも違わないと思うし、驕りかも知れないけれど安定した職業についている私にしてみれば無関係な数値である。でもこの0.1%というのは、例えばたった数人かも知れないけれど、「俺かお前か」なんだと思う。お前なら俺は同情するけれど関係ない。それが俺なら、お前もきっとそう思うだろう。ただしその場合、俺は失業して明日からの食う米がない。

389 中学生へ メモ 時期不明

 好きな人ができます。きっときっと人生で一番好きな人があらわれる。だって生活も趣味もなんにも考えなくていい「ただ好きなだけの人」なんだもの。そしてそれは壊れるよう作られている。これからの人生が、生きること、耐えることなんだと、自分に教え込むための大切な恋なんです。シャボン玉のような虹色のはじける恋になるのです。いつまでも、いつまでも忘れられない恋になるのです。恋だということさえ分らない、そんな恋になるのです。それを人は恋と呼んでいるのです。

390 死刑 メモ 時期不明

 「死刑は国家による殺人である」という議論がある。これは本末転倒である。死刑廃止の議論をもって死刑を論じているからである。死刑というのは、国家が法の形式で行なう人命の剥奪であり、殺人とは異なるのである。こうした本末転倒の理論が通じるなら、すべての国家によるサンクション(制裁)、例えば刑務所での拘束のみならず、罰金、営業停止などなどもろもろの他者による制限は、死刑に限らず過ちになる。そして納税もまた国家による窃盗になる。

391 生命 メモ 2003.8.18

 生命を人間存在の頂点と考えるのは、生命あってこその人間なのだからそれなり理解できる。でも本当にそうなのだろうか。本当に「命」は絶対無比の孤高の頂点に位置しているのだろうか。つまり「命」は他の価値観と比較することすら許されない至高のものなのだろうか。

392 動じない眼 メモ 2003.8.8

 確かに「動じない眼」というのはあるんだと思う。それは力とか優しさとかいうのではなく、その人の精神というか気力みたいなものが眼の中に確かにあるということである。そして「動じない心」というのもすごいことだと思う。それが何なのかは必ずしも分らないけれど、ただ言えることは真剣さである。生きることにも、死ぬことにも真剣であることが、動じない眼を作っていくのかも知れない。

393 願掛け メモ 2003.9.7

 子供の頃に読んだ話の「願い」がどんなものだったかすっかり忘れているが、結局は元の木阿弥になるようなストーリーだったように思う。そう言えば流れ星にでも七夕の短冊にでも、またまた初詣やちょっとしたきっかけで立ち寄った神社にも、願をかけるという習慣は日本人特有の思いかも知れないがけっこう多い。そしてその願たるや、必ずと言っていいほどちっぽけなものに限られているような気がする。というよりは、大きな願いというのは、叶うことなどないと思いこんでいるからなのかも知れない。健康でありますように、家族仲良く、会社の成績がもう少し上がり、受験や結婚の成就など、仮に叶わなくても願いを託した相手を恨みはしない・・・。それが願掛けなのだろう。贅沢な願いなど、決して叶うことなどないのだから・・・。例えば「世界の平和」など・・・。

394 ピンボケの会話 メモ 2003.6.11

 世の中には、「相手がどう思っているのだろうか」ということが分らず、また本人に確かめることもできないまま、手探りで焦点の合わないピンボケの議論をすることがけっこうある。病気の見舞いに行って、あんまり病気と関係のないすっとぼけた話題やかみ合わない会話をして、それでそれなり会話になっているという、それがいかにも日本人らしい。

395 花咲か爺さん メモ 時期不明

 花咲か爺さんの真似をして失敗し、殿様の家来たちに袋叩きにされる隣のいじわる爺さん。主人公の正直で善意のかたまりみたいな爺さんは、隣の爺さんを助けようともしないで結局見殺しにする。この物語はそんな残酷さも持っている。


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                                     2013.5.2     佐々木利夫


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雑記帳始末記(30)

自作のホームページに雑文を発表してから10年になる。資料として作成したメモや切り抜きなどは発表したつど処分しているが、作品にできなかったものが残ったままになっている。それは作品にするだけの力がなかったことを意味しているのだが、それでも私の感性に訴える何かを含んでいたことだけは事実であろう。このまま朽ちさせてしまうのもどこか忍びないものがあり、処分する前にここへ刻むことにした。