396 アリとキリギリス メモ 時期不明

 キリギリスの哀れな末路を、この勤勉なアリさんは、助けようともしないのである。それはそうだ。なんたって、キリギリスがそうなったのは自己責任なのだから。でもアリさんも冷たいよね・・・。

397 美女と野獣 メモ 2003.5.11

 先日の読売新聞の芸能ページに、ディズニー・オン・アイスのミュージカル公演の紹介記事が載っており、その中で美女役を演じる女優の「みなさんも夢は必ず叶うのだから、諦めずに近づこうと努力して欲しい」とのコメントが載っていた。そのことにけちをつけたり否やを言うつもりはさらさらない。ただ、例えば非力で貧乏で、素顔がちっとも冴えない男が野獣になってしまったとき、美女と愛し合うチャンスはあったのだろうかと思ってしまった。魔法使いの残したバラが散る前に、果たして真実の愛を手に入れることができただろうか。我がままをいさめるのも、真実の愛を訴えるのもいい。しかし、向こう三軒両隣に住む我々が、この物語の教訓として「よい子になりなさい」と伝えたい相手は普通の男の子だ。美女だってそうだ。この物語の結末のように現実世界がメデタシ、メデタシになるような展開は、男が力や富をふんだんに持つ美男でなくても、そして女がさっぱり魅力のないどこにでもいるようなフツーの女の子の場合でも成り立つのだろうか。
 そんな当たり前のカップルが野獣から解放されてから老後までの長い期間を、互いに愛し合って暮らしていけるものなのだろうか。フツーの男の子は決して野獣やカエルになることはないし、ましてや「王子様であった」という経歴はもとより、「王子様になるチャンス」そのものが存在しないのである。フツーの女の子にしてもそうである。魔法で眠り続けるチャンスも、小人や白鳥になるチャンスもないのである。ましてや王子様がそんなフツーの女の子にキスしてくれることなんか、・・・多分ない・・・。

398 もう一つの花咲か爺さん メモ 2004.10.5

 いい爺さん、隣の意地悪爺さん、そしてポチがここ掘れワンワン・・・。
 結論。「お殿様」の存在がこの二人の爺さんの行動に対する裁判官である。どうして村の人々が正直爺さんを応援することでハッピーエンドとしなかったのだろうか。これじゃ、権力迎合の物語と受け取られても仕方がない。

399 死に支度 メモ 時期不明

 死に支度 いたせいたせと 桜かな(小林一茶の辞世の句の一つだと言われている)。

400 人の集まり メモ 2003.12.31

 歌手のライブに何万人も集まるという話を聞いて、その数に圧倒されるとともに、どこか変じゃないかと思った。札幌大通り公園の2004年カウントダウンに2万人が集まったそうである。どこか変だ。歌手がいて人が集まる、そのことは歌を聞くということと同時にその歌手を見るという目的もあるはずである。そうだとすれば人が人とかかわるには、数の上でも限度があるはずだし、あって然るべきである。もちろん現代のハイテクはその気になりさえすれば全世界の人にだって同時に配信できるであろう。でも対話の基本が二人であるように、また講演会は演者の表情を見ることができるからその話の理解が深まるように、人が人に訴えかけるためには、許容される人数の限界というか、一定の範囲というか、限られた人数がありまたあるべきではないかと思うのである。その限度を私は知らないけれど、それを超えるような集団はどこか異様な気がしてならない。

401 なんにもなかった人生 メモ 2004.8.9

 劇的な展開の人生っていうのは、人によっては確かにあると思っている。「これが人生だ」っていう人生だってきっとあると思う。でも、何が劇的かってことを問われてみると難しいけれど、やっぱりそれは人それぞれだと思う。例えば「これが人生」の意味を「自分の将来を左右するようなできごと」と定義してみよう。ある人には誰もが認めるようなすごい出来事があるかも知れないけれど、たとえばふと呟いた小学校の先生の何気ない一言からの触発だってあるかも知れない。ただいずれにしても、多くの人は社会的には「なんにもなかった人生」を当たり前に過ごしているのかも知れないと思う。ただそうは言ってもそれは、少なくとも「自分にとっての何にもなかった人生」ではない。やっぱり自分にとっての「貴重な人生」であることだけは確かである。

402 自然を守る メモ 2004.7.19

 自然を守るという意味には二つあるような気がする。
 @ 人間が破壊するのを防ぐ、復活させる
 A 自然対自然の争いに対して、人間がいいと思う方へ介入する
 Aはとっても変だし、@だつてこれに劣らず変である。人間には何の利益ももたらさないとの理由で、珊瑚礁を白化させる鬼ヒトデの駆除に「ヒトデの命を守ろう」との声は聞こえてこない。ここにも命の選別がある。

403 やっぱり自尊心 メモ 2004.6.2

 人が自律していく基本は自尊心だ。ルールを守ることは、放縦に生きるよりは苦痛が多いことだろう。我慢は己れの欲望を制約するし、その分だけ他者の利益になることだって多い。正義とか道徳とか宗教なんぞという大げさなことでなくていい。自尊心さえあれば、人は誇りを持って生きていけるはずである。今の世からはどこか我慢がなくなり、欲望のままに行動するのが当たり前になり、親と子も、先生と生徒も、いつの間にか目上・目下の関係から友達になってしまった。言い訳の決め台詞はいつも「他人に迷惑かけなきゃいいんでしょう」である。一体全体、人は自らの誇りはどこへ捨ててしまったのだろうか。

404 感動の少なくなった時代 メモ 2004.4.11

 飛行機に乗ることが貴重で心躍る体験だったという時代は過ぎた。そんな感動が今は少ない時代になった。現代は感動の少ない時代でもある。

405 老いていくこと メモ 時期不明

 老いていくことは、そんなに苦痛ではない。老いと死は、考え方によっては直接結びついているけれど・・・。

406 無残の花びら メモ 2004.7.10

 「むざんやな 甲の下の きりぎりす」。芭蕉が奥の細道で詠んだ歌である。戦に破れた死者の残した兜の無残さは、草いきれの中に長く埋もれている。花の散り方はさまざまだろうけれど、それでも北国の春はまとまってやってくるから、一斉に散る花びらはまるで絨毯のようである。ただ、弘前のお堀に散る桜の花筏(いかだ)は美しかったけれど、札幌のアスファルトを覆う桜やアカシヤが土に還ることはない。

407 ホタル メモ 2004.7.11

 ホタルは水しか飲めない(飲まない?)と聞いたことがある。

408 食物アレルギー 2004.7.6

 玉子、小麦、いか、大豆、ゼラチン、くるみ、そば、ごま、牛乳、キウイ、ピーナッツなどなど、子供の食物アレルギーが広がっている。学校給食は作るほうも食べさせるほうも、もちろん食べる生徒も大変らしい。
 「弁当を作ることを余儀なくさせられている母親が大変」、「義務教育なんだから学校で個別に対応すべき」などの声も多い。ことは命にかかわる問題である。しかも余りにも個別性の強い問題である。それを行政に委ねることだけできちんと対応できるものなのだろうか。いや、やってやれないことはないだろう。ただ私は、そこまで行政が対応すべきことなのかどうか疑問に思っているのである。アレルギー症状そのものに対して、心無い言葉を使う人や無理解な人、または子供たちのいじめなどがあるかも知れない。でもそれは「アレルギー症状」に対する理解や教育の問題であって、「個別に適応する給食(アレルギーの原因物質を除いた食事=除去食)を学校側が作るべきだ」という義務まで負わせられるものなのだろうか。
 そしてもう一つ気になることがある。食中毒やアレルギーなどがこんなに問題になり、給食説明会みたい会合にお母さん方が沢山集まるのに、「お弁当を持たせましょう」という意見が一つもでないのはどうしたことだろうか。怠け者になったお母さん、と言ってしまうのは言い過ぎだろうか。

409 俺の目を見ろ何にも言うな メモ 2004.6.16

 自分で判断し決めるというのは、意思決定というのがそもそも人間としての基本事項であり、自己責任こそが人を人たらしめているのだから当然だということだろう。しかし、その前提には、判断を求める側が判断する側に対する説明(普通これを透明性と言っている)が必要となる。ところでこの透明性が問題だ。「ちょっと考えてみれば誰でも分ること」ならそれはそれでいい。ただ人は様々だし、理解の程度もまた様々なのは昔から決まっている。だから100%の理解が無理なこともまた誰にでも分っている。そうした中で「おおむねこれくらい」という理解の認識が普通の人の了解点になる。

410 生活の視点 メモ 2003.3.4

 日常の生活がそれほど変わったとは思えないのだが、生活の視点を「他人(ひと)から自分がどう見えているか」ではなくて、「自分でどうしたいか」に置いてみると、風景が少し変わってくることに気づく。


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                                     2013.5.5     佐々木利夫


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雑記帳始末記(31)

自作のホームページに雑文を発表してから10年になる。資料として作成したメモや切り抜きなどは発表したつど処分しているが、作品にできなかったものが残ったままになっている。それは作品にするだけの力がなかったことを意味しているのだが、それでも私の感性に訴える何かを含んでいたことだけは事実であろう。このまま朽ちさせてしまうのもどこか忍びないものがあり、処分する前にここへ刻むことにした。