411 待っているから メモ 2004.6.28

 犯罪ドラマの犯人が犯す殺人は、多くの場合「やむを得ない殺人」になる。言葉を代えるなら「同情すべき要素の多い殺人」でもある。でも犯人は「人が人を殺した」のである。やがて犯人は逮捕される。犯人にも愛する恋人や妻や娘や息子などの家族、いつもやさしかった仲間たちがいる。そしてこのドラマのエンディングはなぜかそうした犯人を理解している人たちの放つ決まった一言がある。それは「待っているから・・・」である。その意味はその犯人に死刑判決が下されることはないだろうを前提に、刑期が終わって釈放されるであろうその時まで「待ち続けている」との意味である。
 でも・・・、と私は思うのである。涙の出るようなこんな感動的な場面なのに、心の奥で私は「一体、いつまで待つつもりなんだ」と思うのである。殺人である。理論的には執行猶予がつく場合もあるだろう。でもドラマの犯人には同情の余地はあっても少なくとも確信犯である。しかも多くの場合、警察を翻弄するほどのトリックを利用して複数人を殺害するのである。日本の判決がそんなに優しいものだとは思えない。そして待つ方の生活も夢を食べているのではない。「待つ」ことはそんなにたやすいことではない。

412 能 メモ 時期不明

 そんなに興味があるわけではないのだが、チャンネルを回している途中にNHK教育テレビで能の番組をやっていた。そこで「観世が能を芸術にまで高めた」との解説があった。それを聞いて逆説的に言うならそれまでの能は芸術ではなかったのかなと思った。そして何かを選ぶということは、何かを捨てることかも知れないと思ったのである。もしかすると能は芸能から芸術に昇華する過程で、私には必ずしもできていないのだが、大衆性とか世俗性、場合によっては下品な笑いとか向こう三軒両隣の熊さんはっさんにも理解されていた庶民性などの大切なものを失ったのかも知れないと思ったのである。
 芸術家は称賛される。芥川賞作家やノーベル賞受賞者も、他の様々な賞賛も同様である。でも社会を支えているのは、実は名もないごく当たり前の、酔ってくだまいているごくごく平凡なただの人なのである。ただの人なしに、世の中は成り立たないのである。もしかしたら、能はそうしたただの人を見捨ててしまったのかも知れない。

413 聖書 本からのコピー 時期不明

 ・・・エリーは聖書をまじめに読んだことがなく、・・・なるべく偏見を持たずに、旧約聖書の重要な部分を読み通してみた。・・・だいたい、太陽がつくられる前にどうして光と昼が存在し得るのか分らなかったし、カインが結婚した相手がだれなのかもわかりにくかった。ロトとその娘たちの物語、アブラハムとサラの物語、ディナの婚約の物語、そしてヤコブとエサウの物語には、ただただ驚くほかなかった。現実の世界にあっても怯懦(きょうだ)な行動をとる者がいることは、承知している。息子が年老いた父をだますようなこちもあるうるだろうし、自分の妻を王が誘惑するのを黙認するような男もいるだろう。自分の娘たちを犯すのを奨励するような男だって、現実にはいるかもしれない。が、この聖なる書物の中には、その種の蛮行に抗議する言葉がただの一語もでてこない。というより、それらの犯罪はむしろ奨励され、賞賛されているようにすら思えるのだ(カール・セーガン著 コンタクト P34)

414 うまく行かないこと 本からのコピー 時期不明

 「娘たちよ/また青年よ/また五十過ぎた私自身よ/事がうまく運ばぬかとらいって決して腰をひくな/どこまでも自尊心を謙遜に保って/筧の水のように/滴りを溜めていけということである」(中野重治の詩)・・・世のなか、うまく行くことより、うまく行かないことの方が圧倒的に多い。思うにまかせないとき、何を拠所に生きていくのか誰しも迷う。苦しくなれば現実に妥協もしよう。だが、自分の中に潜んでいる自尊心だけは失わずにいたい(森本毅郎著 幸せのものさし P80)

415 仏教の神 本からのコピー 時期不明

 「仏教は唯一絶対なる神とか、全知全能の創造主という原理を認めない。そういった具体的な神があるかないか、どんな性格や力を有しているかなどを問題にして議論する時、すでに真理は去って、心は固定し、執着していると説く。・・・こういった内容の仏教は、日本古来の神々を排斥、迫害、あるいは根絶するようなことはなく、人生の不安と恐怖を取り除く霊験あらたかな祈祷仏教として日本の風土に入っていった」(松原久子著 日本の知恵 ヨーロッパの知恵 P52)。
 「・・・間引きは全国に広がり堕胎は武士階級にまで及んだ。今日土産品としてどこでも売られている『こけし』人形はもともと消された子の冥福を祈って親が作ったのが始まりで、悲しく眠りについた赤子の表情が当時の農村の実情を物語っている」(同上書 P162)。
 「日本人は団体行動が好きで・・・、集団で何でもやるため、自己がまったく未発達であると言われる。・・・それでは自己がないのかと言えば、だでもちゃんと内部に持っている。ただその自己主張の仕方が日本人の場合非常に特殊なニュアンスに富んだ発達をしたために外からはわかりにくいのである。・・・未発達どころか、江戸時代からの都市生活と激しい競争のうちに、恐るべき自己を発達させ、表向きと内部の二つの自己を使い分けることに慣れ、何とか自分を通していく複雑な道を開拓してきた。・・・日本では譲歩は敗北を意味しない・・・ヨーロッパでは譲歩は自滅につながる・・・」(同上書 P172〜177)。

416 クローン人間 新聞切り抜き 2009.4.2

 「・・・(クローンとは)受精なしに体細胞から作った・・・複製ということで・・・。人の出会いは偶然である。ひとりの男とひとりの女の偶然の出会いがきっかけとなって〈わたし〉は生まれる、はずだった。そういう出会いなしでクローンの〈わたし〉は再生産されうる。・・・自分を呑み込みながら消滅してゆくあのウロボロスの蛇に(似ていなくもない)」(大阪大教授 鷲田清一、読売新聞夕刊)。
 ただウロボロスの意味には、一つの消滅でもあるが同時に終末が発端に還る円運動、つまり終わりが始まりという解釈も含まれているのではないだろうか。

417 初夢とあだ討ち 雑誌切抜き 1997.2

 「・・・一富士・二鷹・三茄子・・・は富士の曽我兄弟、浅野家の紋所に因む赤穂浪士、茄子の産地で有名な伊賀上野での荒木ま又右衛門の鍵屋ヶ辻での助太刀の三大あだ討ちの大願成就にちなんで、夢を実現させたいという庶民の気持ちを意味するものとして理解することができる。もっとも、たとえば・・・曽我兄弟が本当に七千にものぼる野営テントの中から、やみ世の中で工藤祐経の居場所を探し出せたのか・・・、赤穂浪士にしても、正々堂々と名乗り出てこそあだ討ちであって、夜中に不意打ちをかけるのは武士にあるまじき、卑怯な振る舞いかも知れない。ただ、江戸時代において、あだ討ちが至難の業であったことは間違いなく、数年、数十年あるいは一生かかってもこれを果たしたということの価値の大きさは、現代でも十分通用すると考えられる。その意味で、初夢の中身としてはそれなりの説得力をもっていると言えなくもない」(文明評論家 新井喜美夫、雑誌バンガード 1997.2月号 P47)

418 人身事故 新聞切り抜き 1997.8.25

 「飛び乗った列車がどうしたものか、一向に発車しようとしない。ややかってアナウンスが入り、・・・ひとつ先の駅のホームで人身事故があったのである。・・・乗務員の口調の微妙さも(飛び込み自殺であることを)それとなく伝えている。・・・迷惑だな、と思ってしまう。・・・その日、わたしは知人の告別式に向かうところであった。その自分が今ねたまたまに行き合わせた見知らぬ人の非業の死を、迷惑なことと感じてしまっている。・・・葬儀の時間が実際迫ってもいた。送るべき使者に、遅刻という最後の非礼を犯すことも許されない。であるにせよ、飛び込み自殺を図るほどに追い詰められた人の死を、名北斗感じてしまう心に自分で戸惑い、その戸惑いが割り切れずわだかまり続けて、今日にいたっている。・・・」(熊野純彦 北海道新聞)

419 同じ顔 新聞切り抜き 2000.1.19

 「どうも日本人の若い人の顔がおなじようになってきたような気がする。・・・最近急にバラつきがなくなったようにおもうのだ。とくに顔はきれいにととのってきた。街は美男美女であふれている。が、どうも存在感が希薄になっているのではないか。・・・顔の管理化がすすんでいるのです。・・・いや顔だけではない。ダイエットてととのえるからだそのものも規格化され、たんなる模様のような存在になりつつあるのではないだろうか」(野村雅一、日経)。

420 個人空間 新聞切り抜き 1998.5.13

 「わたしたちは・・・、しゃがんだ姿勢で人と話しこむときなど、顔がくっつきそうになるほどからだを寄せるものだが、立った姿勢ではそんな近接距離で話すことはとてもできないだろう。・・・小さな天板をかこんで家族数人がコタツに足をつっこんでもなんの圧迫感もない。それがもし椅子とテーブルだったら、いくら仲のよい家族でも息苦しくて逃げ出したくなるだろう。・・・一定範囲内に人に近寄られるとまるでからだにさわられるような感触がするようになる。英米人のあいだではその距離は親しい間柄では50センチ前後、そうでなければ1メートル強である。この空間は日本人の場合よりかなり大きいが、これは椅子にすわるか立った姿勢を基準にしている。暮らしの変化にともなつて日本人の対人距離もそれに近くなってきている」(国立民族学博物館教授 野村雅一 しぐさの人間学 日経)


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                                     2013.5.10     佐々木利夫


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雑記帳始末記(32)

自作のホームページに雑文を発表してから10年になる。資料として作成したメモや切り抜きなどは発表したつど処分しているが、作品にできなかったものが残ったままになっている。それは作品にするだけの力がなかったことを意味しているのだが、それでも私の感性に訴える何かを含んでいたことだけは事実であろう。このまま朽ちさせてしまうのもどこか忍びないものがあり、処分する前にここへ刻むことにした。