434 真珠湾 雑誌コピー 時期不明

 「・・・真珠湾の奇襲作戦・・・これまでの通説では、奇襲予定であるハワイ時間の12月7日午前8時の1時間前、すなわちワシントン時間7日午後1時に、日本側は米国に対して最後通牒を手交することになっていた。だが現実には、駐米日本大使館の不手際から野村大使が国務省に着いたのは午後2時5分、ハル長官に文書を手交したのは2時15分であった。一方、日本の機動部隊の攻撃機がオアフ島上空に到達したのが午前7時50分、第一弾を投下したのが7時55分であるから、差し引き20分のフライングをしたことになる。そして、そのために乾坤一擲の真珠湾奇襲作戦の大成功も、「騙し討ち」という汚名を受けることになってしまったのである。ところで(仮に時間差がなかったとしても米国が騙し討ちと)主張しPRしたに違いないであろうことが、最近になって明らかになった。最初の外交文書には、日本側の主張は全く認めてもらえないので残念ながら外交交渉はやめにしたい、と述べられてはいるが、「よって、ここに貴国に対し、宣戦を布告する」といった、もっとも重要、不可欠な文言が記されていなかったからだ。真珠湾奇襲が「騙し討ち」であるか否かは、時間のズレにあるのではなく、文章の表現のズレにあったというわけである(雑誌バンガード '92.3 p28 コミュニケーションギャップ 東急総合研究所所長 新井喜美夫)。

435 なぜ私だけが… メモ 時期不明

 「どうして私だけが」、この問いは不条理にぶつかった時に間断なく押し寄せる自問である。受け止めるしかないと分かっていても、そう自問したくなる弱さが常に「私」にはある。社会はどんな場合にだってなにがしかの歪をもっている。歪のない正方形の社会なんて、かつてあった試しがないし、たまそんな社会が仮にあったとしたら、そのことこそ歪なんだと言っていいだろう。
 だから自分に突き付けられた不条理は、社会のせいにしたところで何の解決にもなりはしない。受け入れ、許容し、そうした不条理を取り込んだ総枠が「個人」、つまり「私」なんだと認めるしかない。

436 かゆいところに手が届く メモ 時期不明

 世の中だんだん世知辛くなってきて、いわゆるベンチャービジネスなんぞには銀行も金を貸し渋るし、事実、貸し渋りの理由そのままに、成功することはなかなか覚束ない。その原因の多くは資金の不足にあり、「ベンチャー」といいつつも、結果としてリスクを犯すだけの勇気というか、余裕がないことに尽きる。そこで識者の弁が冴え渡る。大きな資本でじっくり構えるのは大企業に任せ、ベンチャーとしては、「スキマを狙うべき」であり、「かゆいところに手が届く」事業に目を向ける必要がある、と。
 なるほど、そこに新たな消費者の選択の余地を求めることは理解できる。しかし、そうしてスキマをなくしていったら、人が自分で選択するという余地が、どんどん狭まっていくことになってしまうのではないだろうか。「あなたはどうぞ気ままに寝そべっていてください。頭のてっぺんから足の先まで私どもがお気に召すままにお世話いたします。着るものや髪型などのおしゃれから、なんなら食事も口元までお運びいたします」。いや、多分スキマというものは、いくら埋めていってもなくなるということはなく、単に小さくなるだけで、ゼロにはならないだろう。しかし、そんなにスキマを埋められて行ったら、人の持つ自ら努力して開発するという知恵を削いでしまうことにならないか。それとも現代は、並の人間にとっては人知の限界を超えてしまい、普通の努力なんぞというものは既に追いつけない時代になってしまったということなのだろうか。

437 ストレス メモ 2003.11.7

 いつのまにかストレスという言葉が一人歩きし出して、ちまたに溢れるようになってきた。最近のテレビで「ストレス請負います」という番組を見た。ストレスって、請け負って消えるものなのだろうか。請け負われて消えるストレスってのは、本当のストレスなのだろうか。 こう考える背景には、私自身の理解の中に「ストレス」は病気ではないのではないかという思い込みがあるのかも知れない。だから、癌や胃潰瘍などと同じように、病気と考えることができるなら、専門家に治療を委ねることはそんなに変なことではないだろう。
 でもストレスと言うのは、「精神緊張、心労、苦痛、寒冷など、ごく普通に見られる刺激(ストレッサー)が原因で引き起こされる生体的機能の変化」であり、日常的な精神的、肉体的な刺激のことである。だから「寒い」と思ったり、歩き過ぎて「疲れた」と感じたり、頬をなぶる春風に「心地よい」と感じたり、素敵な人に出会って「ドキドキ」したりするのも、全部ストレスである。心理学の実験に、体温とほぼ同じ程度の風呂に横になって光も変化させず、音も聞こえない状況に缶詰状態で生活するというのがある。つまり水の中なので重力すらもほとんど感じないことになるから、刺激を極端に押さえた環境(ストレスをギリギリまで軽減した状態)における人間の反応を見る実験である。

438 過剰雇用 メモ 時期不明

 過剰雇用と言う言葉は、とっても語呂のいい言葉だ。こうした言葉を繰返し聞いていると、不景気も政治不信もなんでもかんでもこの言葉の中で説明できてしまうような、そんな感じさえ受ける。でも考えてみたらこの言葉、「お前さんは採算の合う仕事してないから首にするよ」と言っているのと同じことだと気づく。
 国会中継や日銀の説明、したり顔の経済評論家や、財界トップの論評などなど、いともあっさりとこの言葉が出てきて、それであらかたのことが説明され尽くしたような印象を受ける。テレビも新聞も、失業率5%だの、5.1%だのと、あっさり伝えているけれど、この0.1%の中に一体何人の失業者が含まれているのだろう。

439 金がものを言う メモ 時期不明

 「金がものを言う世の中」なんて言うと、金の亡者の戯言みたいに聞こえるかも知れないけれど、そうでない世の中なんて現代ではあり得ないと考えてもいいのではないだろうか。テレビ番組などで、若いタレントがアフリカやブラジルの奥地に住む少数民族と1週間ばかり暮らして、自然に触れただの別れが辛いなどと、人間の共感みたいな言葉を聞いていると、どうも居心地が悪くなる。ただこうした番組がけっこう後から後から手を変え品を変えて出てくるし、それなり人気があるのは、貨幣経済の成立していない社会に我々があこがれているからなのかも知れない。

440 自分の中にあるもの メモ 2003.12.31

 残忍、暴力、非道、テロ、戦争…、そうした人間としてあってはならないとされているものが、実は自分の中に間違いなく存在していると感じることは、当たり前かも知れないけれどショックである。
 正義を頭で理解し、正しいと感じ、それを支援する多くの本を読み、世界の誰もがその実行を望んでいるのに、どうして私はそのために動かないのであろう。どうして缶ビール片手にテレビに写る世界の紛争や飢餓や自然破壊を、まるで他人事のように見ていることができるのだろうか。

441 不幸を知らない子供たち メモ 時期不明

 過保護に馴れて他人に責任をなすりつけ、安全や平穏が当たり前で、それを当たり前に設定するのが国家であり社会であると、人はいつからそう思い込むようになってしまったのだろう。「いたれりつくせり」の世の中は、不幸を知るチャンスを自ら放棄していることではないのだろうか。逆説めくけれど、不幸を知ることが幸福を味わうことのできる原点になるのではないだろうか。「指導する」、「マニュアルを作る」、「カリキュラムを作る」ことがいつのまにか教える側の至上命題になり、それに従うことが若者の当然に受けるべき作業になってしまった。だがそれは、自ら開発し、努力し、発見し、作り出していく力を、若者から奪う結果を招くことになってしまっているような気がする。「教える」とは一体どういうことなのだろうか。「答えを出すこと」を目的とすることだと、我々は思い込み過ぎていないだろうか。
 マニュアルに従うことは、確かに一つの答えへの道筋を示してくれる。しかし、マニュアルに従って出した答えは、マニュアルが出した答えであって、それを実行した者の出した答えではない。このことは逆に言うと、マニュアルにないことによって起きた事件は自分とは係わりのない場面であり、他人の責任であるということになるのであろうか。そうだとすると、「マニュアルが必要」とは、「自分の判断で実行したことは自分の責任である」ことを理解した上でこれを拒否し、自分で責任を負わなくて良い環境に自からを置きたいという意味なのだろうか。 いま子供たちは、人間としての基本的な本能を欠かされたまま生活している。
 多分それは核家族化や少子化が当たり前のことになり、「親と子」という形式が生きていくための基本的な環境になってしまったことも原因しているだろう。ゆとり教育が叫ばれて間もないと言うのに、早くもそれが誤りなのではないかとの議論が出はじめている。

442 宗教の巨大化 雑誌コピー メモ

 ・・・人は@なる利己の醜さに居たたまれずに神にすがるのだ。魂の浄化を願い、心の安らぎをつまずきながらも求めて止まない境涯を、見守るやさしさがそこにはある。・・・宗教は巨大化することによって俗悪化する。それは既成の宗教集団のの歴史的経過の中にも充分読みとれるところだ。この教団は発生と同時に俗悪化した。・・・新興宗教に通有の現世利益の匂いが過ぎる(胡桃沢賢哉 誌名不詳 P41 源さんの日々)。

443 謝罪の意味 新聞切り抜き 1992.1.4

 ・・・日本人は人に手を差し伸べるということは、情緒の範疇に属することだと思っている。したければする。相手が好きだったらする。自分に経済的余裕かあったらする、のである。しかし救うというのは、情緒ではなく、したくなくてもする人間の義務なのである。・・・すべての陳謝は、金銭的な表現を伴わなければならない。金銭・物質的補償のない陳謝は、謝ったことにならないのである。・・・人間は、愛と共に、疑いを持つことが必要だ。それが救援の仕事をする人に課せられた任務である(曽野綾子 読売新聞 論点 無償の救援の難しさ)。


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                                     2013.5.25     佐々木利夫


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雑記帳始末記(34)

自作のホームページに雑文を発表してから10年になる。資料として作成したメモや切り抜きなどは発表したつど処分しているが、作品にできなかったものが残ったままになっている。それは作品にするだけの力がなかったことを意味しているのだが、それでも私の感性に訴える何かを含んでいたことだけは事実であろう。このまま朽ちさせてしまうのもどこか忍びないものがあり、処分する前にここへ刻むことにした。