「あなたの癌は、がんもどき」(近藤誠著、梧桐書院)を読んで、著者のがんに対する思いが、私たちとは少し違っているのではないかとの思いを別稿「がんもどきを読み終えて(上)」で書いた。今回は、その続編として、この本に表れた著者のがんに対する様々な見解に対して、どうして医療関係者がだんまりを決め込んでいるのか(私が単に気づいていないだけなのかも知れないけれど)が気になったので、その疑問を書いてみたい。

 著者の主張は私の理解する限り極めて単純である。@がんは「がん」と「がんもどき」に分けられる。A「がん」は転移して転移した臓器の機能不全を起こすので死にいたる。B「がんもどき」は転移しないので決して悪くなることはない(つまり死ぬことはない)。C「がん」にはどんな治療方法(手術、抗がん剤治療、放射線治療、免疫療法などなど)も効果がない。D「がんもどき」は自然に治癒するか拡大することはないので、天寿を全うできる。

 つまり「がん」にしろ「がんもどき」にしろ治療する必要はないということである。もちろん「がん」であっても副次的な障害を除去するための手術(たとえば腫瘍が神経や血管などを圧迫しているときにその圧迫を取り除くなど)は彼も認めている。しかし手術はむしろがん細胞を体中にばらまいたりするほか、放射線治療も放射線障害などの影響を人体に与えるだけである。だから治療は延命効果がないどころか、逆に患者の命を縮めてさえいると言う。そして彼は様々な学会などに発表された論文や統計データ・図表などを駆使してそのことを論証する。
 つまりは、「手術を受けても、寿命が延びることはないし、逆に治療を受けなくても、寿命が縮むこともない」(同書P141)と言うのである。

 もちろん引用された論文やデータが、どこまで客観性を持っているのかについての私の知識は皆無である。論文やデータに捏造の疑いがあると言いたいのではない。発表されたデータを自分の都合のよいように曲解して使っているとの疑いを指摘したいのでもない。数ある論文やデータの中から、著者が仮に自分の論証に都合のいいものだけを集めたとしても、その事実を私が突き止めることなど不可能であるし、私にはそうしたデータを読みこなす力はおろか、データの存在自体を知ることすらできないからである。

 そして彼は著書の中でこうも言っている。「一切の検査・薬を断って自由に暮らした方が長生きできることは、データが保証しています。そして医療から離れれば、がんの呪縛から逃れることもできる」(同書P255)。そして更に、「・・・私にも社会通念にとらわれていた時期があります。それで(今は無意味・有害と考えて施行しない)抗がん剤治療を行って、何人もの人を苦しめてしまった過去があります。この場を借りて、故人とご遺族に謝ります」(同書P259)とも述べている。

 医学の進歩を否定するつもりはない。試行錯誤のくり返しが有効な治療に寄与することだってあるだろう事実を認めないわけではない。時には誤った治療が正しい治療だと誤解されたまま普及してしまうことだってあるかも知れない。またどんな医師にだって誤診があるだろうことも認めるのにやぶさかではない。人の進歩は、医療のみに限らず過ちの中からだって見つけられてきたのだとも思う。

 だからそうした時代の中で仮に間違った治療があり、その治療を受けたために避けられた悲劇に見舞われるようなケースがあったかも知れない。だからと言って被害を受けた者が「仕方がなかったのです。ごめんなさい」の一言で納得するとは思わないけれど、それでもそれはそれで理解できないではない。
 またそれが仮に世界最先端の医療でなかったとしても、その地域なりで共通に理解されている治療であり、時には自らの財布の具合の中での最良と思える治療だったなら、それもまた納得できると思うのである。

 ところが著者の言い分は、現在行われている医療や厚生行政などと真っ向から対立する。誤解を恐れずに言うなら、著者は健康診断も含めて現在のがん治療に関する世の中の常識を真っ向から否定しているのである。「がん検診は死亡者を増やす」(同書P142)のであり、がんに関するあらゆる治療は無意味か有害であると言うのである。「・・・当時、全国の乳がん手術は年間二万件ほどあったので、その数値をストレートに代入すると、年間2400人が、癌でもないのに乳房を失っていたことになる(当時、乳がん手術のほとんどが乳房全摘術)」(同書P46)とさえ断言する。

 ことはがんの問題である。最近は「がん=死」の意識が多少薄らいできていると言われているが、それでも多くの人がこの方程式を所与のものとして受け取っている。「がんが治った」という話は健康食品かサプリメントの宣伝でしか聞こえてこず、がんで死ぬものが圧倒的に多いからである。そしてもしかしたら「ガンが治った」のではなく、「がんではなく、がんもどきだった」からなのかも知れないとも言える。

 そんなときにこの著者の意見は私たちの知識と真っ向から対立する。国やほとんどと言ってもいいくらいの医療機関がこぞって転ばぬ先の健診、早期発見、早期治療をがん治療の基本に置いている中で、そのシステムが完全に間違いだと宣告しているからである。もちろん私も含め多くの人の癌に対する知識は皆無に近い。だから国を信じ、行政を信じ、医者を信じることで自らの命をそこに委ねてきたのである。

 そのことを軽率だとは思わない。「餅は餅屋」と冗談めかすつもりはないが、世の中がこんなにも専門化してしまっているなかで、私たちはそうした専門家の知識に否応なく頼らざるを得なくなっているからである。それは時に「頼り」を超えて「依存」や「おんぶにだっこ」にまでなっているかも知れないが、それでも経済・政治・宗教などなど、多様化する社会の中で専門家に頼るのは現在を生きていく者の宿命でもある。つまりはそれだけ専門化が自己決定の選択を難しくしているということでもあろう。

 しかしこの「がん問題」は、映画やテレビが面白いか面白くないかを決定する問題ではないのである。あの店の料理が美味いか不味いかを判断するような問題でもないのである。ことは命、自分の命、家族の命の問題だからである。

 これほどの重大な問題でありながら、ここには真っ向から対立するテーマが放置されたままになっている。しかもそれに対して私たちは十分な知識を得られないまま自己責任、自己決定を迫られているのである。もちろん自分で学び、知識を得て、納得してから決断することはできる。でも、その決断の時には既に私たちは発病・癌宣告という切羽詰った状況にどっぷりと浸かってしまっており、学びや知識を得るような時間の余裕は残されていないのである。なぜなら、「その時」は既に「自分や家族ががんだと宣告されてしまった後」であり、明日手術をするかしないかの決断を迫られている時だからである。

 だから私はこんなにも重大で、しかも自己決断を迫られているような対立している問題に対して、著者も医師も医療関係者も、そして厚生省労働省などの行政も、どうしてだんまりを決め込んでいるのか理解に苦しんでいる。私はこの本の著者の書いていることを必ずしも信じているわけではないけれど、それでも様々な統計データを駆使した意見には否定できないような気もしている。そして私は思う。著者の意見が正しいなら現在の行政や医療のシステムを改変すべきだし、もし間違っているなら、それを論破し人々に公表できるのは同業者や医療行政に携わる者だけだからである。

 極論を言おう。問われているのは「手術」がいいのか、「放置」したままでいいのかである。その決断を専門的知識のない患者に求め、そして自己責任を負わせるのは酷である。無理である。無茶である。これほどまでに人気のある本である。少なくとも行政は「検討に入った」くらいのことは、直ちに国民に公表すべきではないだろうか。

 世の中には詐欺まがいの事例が数多く発生している。時に宗教や暴力を「信ずる」ことの弊害も含まれることだってあるだろう。だがそれとこの「がん治療」を一緒にしてはいけない。この問題は「信じることの是非」が問われているのではない。「事実の是非」が問われているのだからである。思想信条の自由、発表の自由、学問の自由、そんな範囲をこの問題は既に超えているように私には思える。

 分子標的薬に関して効果がないのに有効との判断が示されている背景に関して、著者はこうも書いている。(この薬の結果が良好と報じる論文の著者たちはこの薬を)「製造・販売する製薬会社と、経済的につながりがあることです」(同書P227)。まさかに医療全体にこんな理不尽が蔓延しているなどないことを祈るばかりである。


                                     2014.1.28    佐々木利夫


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がんもどきを読み終えて(下)