「あなたの癌は、がんもどき」(近藤誠著、梧桐書院)を数日前に読み終えた。この本を読むきっかけについては前回のエッセイ(別稿「
がんもどきとの出会い」参照)に書いたところだが、読み終えてどこかしっくりこない後味の悪さというか残滓みたいなものを引きずっていることに気づいた。読みやすい本だったし、書いてある文章も、中には難しい医学用語などが混じってはいるものの、比較的分りやすい表現だった。つまり本としては、「分りやすく面白く読めた」という部類に入ることだろう。それにもかかわらず、私にはどうにもこの本の後味にすっきりしないものを感じてしまったのである。
著者の意見に反対というのではない。著者の独断が目に余るというのでもない。むしろ理解できる内容であることに関して、逆に戸惑いを感じたのである。戸惑いは大きく分けて二点ある。一つは、著者の患者に向き合う視点に対してであり、もう一つは、彼の考えに対して他の医師や医療現場や医療行政に関わる多くの人たちがどうしてだんまりを決め込んでいるのか理解できなかった点についてである。
一つ目の著者の「患者などに対する視点」について触れよう。彼はこの本の中で、癌にかかわる民間療法なども含めた様々な思いが世の中には錯綜していることに関して、こんな風に書いている。
「・・・がんを告知された患者・家族が対処法を考える場面で混乱するのは、恐怖や不安のために冷静さを失うことが原因でしょう。では、何が恐怖や不安をもたらすかというと、それは今は転移がなくても、すぐにも転移する可能性がある、という通念でしょう。時々刻々と転移が生じる可能性があると思ったら、心の余裕は到底生まれず、一刻も早く治療を、と、医者や病院にお任せになってしまう」(同書p244)。
それは違うのではないかと私は思ったのである。告知が患者・家族を恐れさせるのは、転移の可能性なのではなく、「がん=死」の思いから断ち切れないからではないかと思ったのである。著者の心の中にはすでに自分の主張する「がん」と「がんもどき」の違い、つまりがんもどきは転移しない癌なのだから死とは結びつかないとの信念が、すでにあらゆる患者やその家族が常識として理解している、了解しているとの思いが染み付いているように思えてならない。
でもほとんどの人は、彼の言う「がんもどき」の理論を知らないのではないだろうか。彼が「がんもどき」は転移しない癌なのだから、特別な場合を除いて手術はおろか他のどんな治療も必要ないと確信していることは、真偽はともかくとしてこの本を読んで理解できた。決して彼独特の思い込みだとも思わない。
しかし、その理解が患者や家族に共通する常識にまで普及しているなら、例えば鼻水が出てきたときに「インフルエンザ」ではなく「単なる風邪」であると医者から言われたときのように、そして腹痛が「食べすぎ」であって「食中毒」や「盲腸炎」などでないと言われて安心できるときのように、人びとの理解が共通しているなら、彼の言う「転移するかしないか」の判断が人の恐怖や不安を解消する指標になるだろうことは分る。そして「転移しない」ことは「死ぬことはない」と同じことだと理解し、きっと患者・家族は安心するだろう。
でも私たちが持っている知識は違うと思うのである。まず第一に医者や関係者専門家も含めて「がんもどき」も「がん」も共に「がん」として判断していることである。「もどき」なんて言葉は、彼の著書を読んだ者かもしくは彼の著書を話題にしたことのある者以外には通じないと思うのである。しかも私たちは実証的にかそれとも風聞による思い込みかは別として、がんで多くのものが治らずに死んでいくことを知っている。脳卒中や心筋梗塞や肺炎などによる死も承知してはいるけれど、「がん=死」の方程式は私たちの中に抜けがたく染み付いているのである。それはまさに日本人の死亡原因の第一位に「悪性新生物」(つまり癌)があげられていることからも明らかである。
私は私たちの心にこの方程式が抜けがたく残されていることが、患者も家族もがん告知に対して恐怖や不安を感じている最大の原因になっていると思っている。
もちろん最後は自分の体である。自己決定の責任はすべて自己にある。死が避けられないとしてもなお生き延びることを望むのか、それとも従容として運命に身を委ねるのかは、結局自分で決めなければならない。そして自分で決めるだけの意識が残っていない患者は、家族がその使命を引き受けなければならない。だが自己決定・自己責任という輝かしい言葉の前に、私たちの持っている知識や決断力は余りにも小さい。それでも著者は、自分の命は自分で決めろという。
「・・・自分で決めることが大切で、その後悪い結果が出ても、担当医に押し付けられたのではない、十分考えて自分で決めたという一点が、心を落ち着かせ、自尊心を支えてくれるはずです」(同書P247)。
言ってることは分る。理屈として正しいことも理解できる。でも人は他者にすがりたいのである。それでなくても自分で決められないことがたくさんあるのに、そしてその中で一番大切で自分で決める以外に方法がないことくらい十分分っているにもかかわらず、それでも人は迷うのである。誰かにすがりたいのである。他人に判断を委ね、そこにすがりたいと思うのである。
溢れるように存在する民間療法やサプリメントの類に関するパンフレットなどについて著者は
「・・・何か奇跡的な治療はないのかと血眼になって探している患者・家族が読んだら、ひとたまりもなかったことでしょう」(同書P249)と言う。けれども、そうした患者・家族の「すがるような思い」に心を寄せるだけの気持ちを持って接することのできない医者には、どこかで私は「がん告知」というとても重い役割を担って欲しくないとも思っているのである。
彼は更にこんなことも言う。
「なぜ人は、がんを恐れるのか。最後は痛むと聞くからでしょうか。しかし適切な処理をすれば、痛みは確実に取れる。では死に至る病だということを恐れるのか。しかし人は、死を避けることはできないし、死に至る病は他にも多々あります」(同書P253)。その通りである。でもそんな理屈が「がんに恐怖や不安を抱かなくてもいい」ことに対する何の説明・説得にもなっていないことを、どうして著者は気づかないのだろうか。
少し長くなってしまいました。問題点として掲げた第二点の、著者の意見に対する医療関係者のだんまりについては、稿を改めて書くことにします。別稿「
がんもどきを読み終えて(下)」へ続きます。
2014.1.23 佐々木利夫
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