「神は死んだ」という言葉は、かなり以前から知っていた。もちろん私の造語ではなく、哲学者ニーチェの言葉としてである。とは言っても私がニーチェのその言葉が記されている著書なり論文をかなり以前に読んでいたというわけではない。具体的にこの語に接したのは数年前にニーチェに挑戦したことがあって、そのときこの言葉が彼の著書である「ツァラツストラかく語りき」の中にあるのを発見したのが最初だから、そういう意味では最近のことだといっていいだろう(別稿「懲りない男」参照)。

 とは言っても最近まで私のこの言葉に対する理解は、せいぜいが「人々が神への信仰を失い、それと裏腹に神もまた人を信じなくなくなった」程度のものであった。つまり、私の中でも神は飽くまでも信仰上の存在として存在しているのであり、人々の信仰心の総和こそが神の価値そのものを決定するのだと思い込んでいたということである。ただ神は現実的に生きているものではないから、人の死のように「神もまた死ぬ」などのような発想は私の中には皆無であった。

 それがつい最近、同名の著書を読む機会があり(ロン・カリー・ジュニア著 「神は死んだ」 白水社 2013年刊)、神の死というものが人の死と同様に考えられるのではないか、もしくは考えている人がいることに気づかされたのである。だからと言って神は物理的な意味で人と同じように「生きている」と信じているわけではない。一種の抽象化された「意識上の存在」であることを否定することはできないだろうと、今でも思っている。

 それでもなお、「神の死」を「人の死」と同列に考えることができるのではないかということを、このロン・カリーの著書から知らされたのである。それは「神」を単なる信仰上の抽象的存在としてしか理解してこなかった私にとっては、強烈な一撃となった。

 ロン・カリーの語る神は、なんの力も持っていない。どんな奇跡を起こす能力もない。神はスーダンの北ダルフール地方にある難民キャンプに、ディンカ族の若い女の姿でやってくる。傷だらけでその傷は化膿し、ウジ虫さえ湧いている。そして誰からも助けられることなく、空から落ちてきた爆弾で神は死んでしまう。本当に神はその場で死んでしまうのである。

 それはそれでいいのかも知れない。ただ問題は、「神の死」という事実を誰もが知ってしまったことにある。神が死んだことを、それまで神を信じていたすべての人たちが知ってしまうのである。神のいない時代がやってきたことを、神を信じていたすべての人が知ってしまう、そこから「神の死」の物語が始まるのである。

 私たちは「神も仏もない」と嘆くことがある。だがそれは「神の不存在」を前提にしているのではない。むしろ「神は存在している」ことを所与の前提とし、そうした安心感のもとで「少なくとも『神に対する私の願い』に対して神は何の助けにもならなかった」と嘆いていることに気づく。

 ときに人は神を呪い、否定し、恨み、そして助けてくれなかったことを嘆く。だがそれは「助けてくれなかったこと」への嘆きであって、その前提として神の存在を信じているのである。神はいるのである。忙しかったからなのか、それともその程度の願いは自分でやれと示唆しているのか、はたまた賽銭が足りなかったのか、それとも信心が足りなかったからなのか、いずれにしても神は存在しており、ただ単に「私の願いが叶わなかった」という事実があるだけなのである。

 「神は死んだ」という言葉は、いたものがいなくなった、つまり神が不存在になったことを意味している。だとするなら神は空っぽになってしまったのである。神を恨むことすら無意味になるのである。どんなに過酷な苦難が身に降りかかろうとも、神に助けを求めることなどもう不存在なのだからできないのである。恨んだり呪詛したりする対象が、そもそも存在しなくなったのである。

 ニーチェがどんな意味で「神は死んだ」ことを伝えたかったのか、それは分らない。私の理解力ではツァラツストラを思い出して見ても、ニーチェにおける神の死が不存在までの意味を持っていたようには思えない。ニーチェもまた「人間の頼りになるような神は存在しない」とは思いつつも、「頼りにならない神の存在」までは否定していないような気がしている。

 無神論者は世の中に数多くいるだろう。神を信じますか、と聞かれて否定する者もきっと多いことだろう。それでも人は、人為を超えた何かに救いを求めることがあるのではないだろうか。「救ってくれない神」を恨み、「ほったらかしにする神」に呪詛の言葉を投げつけることが、神を信じていない者にとっても救いになっているのではないだろうか。「神を信じない」とは、別の意味で「神の存在を信じている」ことの裏返しになっているのではないだろうか。

 だとするなら、「神は死んだ」の思いは、そうした意味での救いさえも否定してしまうことになる。「神を恨む」ことによっても、人はどこかで救われているかも知れないのだから・・・。


                                     2014.10.29    佐々木利夫


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神は死んだ