果物や鮮魚だけに限らず、肉類も含めて生鮮食料品のほとんどが、いわゆる「せり」と呼ばれる市場の入札で最初の価格が決まるのだろう。産地直送などの例もあるし政府が介入するような価格決定のシステムもあるだろうが、多くの生鮮物の価格が「せり」で決まることが多い。私はそのことをどうのこうの言いたいのではない。

 ただこのせりにおける価格決定システムの中に、どうも理屈に合わないことがあるように感じられてならないことがある。それはご祝儀相場と呼ばれる価格決定の方法である。ご祝儀相場は、まずその対象となる商品がその年初めての出荷、つまり「旬の走り」としての決定された価格の俗称のようである。

 それが高値を呼ぶことに特に違和感は感じない。メロン、いちご、さくらんぼうなどから、かつおやまぐろなどの鮮魚に至るまで、様々な初物がその時々の市場を賑わし、その初物を味わいたいと思うであろう顧客の顔を思い浮かべながら卸売業者は「せり」に参加するのだろう。初物に目のない顧客は多少高価でもきっと買ってくれるはずだ、ならば多少高く仕入れたとしても十分採算はとれるのではないか、そうした思いの中で「せり」は進んでいくと思うのである。

 そうした思惑が間違っているとは思わない。また出荷する生産者や漁師にしたところで、初物として市場に出すためには、それなりの先行投資をしている場合もあるだろうし、先物は希少価値でもあるのだから、そうした思惑がせり値を高値へと誘導する現象を否定はしない。それは例えばダイヤモンドのように数億円、数十億円の価格が付されようとも異なるものではないだろう。

 ただ、そうした価格決定のシステムと、今回取り上げる「メロンのご祝儀相場」とは私にはまるで異なるように思えてならないのである。今年の札幌中央卸売市場でせりにかけられた夕張メロンは、二玉(3.9kg)セットで250万円で落札された(2014.5.13)。なんと一個 125万円である。メロンのご祝儀相場については前にもここに書いたことがあり(別稿「80万円のメロン」参照)、その当時(2006年)の価格は80万円(一玉当たり40万円)になっているから、夕張メロンの初せり価格は年々上昇しているのかも知れない。

 私はその価格が単に高いから批判しているのではない。メロンの価格が色や形や味、そして旬を迎えて出荷が増えているのかどうかなど様々な要素によって決定されるであろう入札というシステムを否定したいわけでもない。ダイヤモンドだって、透明度や色艶、カットのし方、大きさなどによって数百億円から数万円までの価格差がつくであろうことはむしろ当然のことだと思うからである。

 ではそうした価格の決定の仕組みとメロンの初せりの価格とが同じものだとは、私にはどうしても思えないのである。価格決定の仕組みが一律のものだとは思わない。投機や投資として転売を目的に値をつける者もいるだろうし、また純粋に個人の好みとして「これが欲しい」とのみの思惑で入札に参加する人もいるだろう。だから人によってある物の価格が千円であろうと百万円であろうと、それはまさに本人の自由である。

 ただそれとこのご祝儀相場の価格決定とは、まるで異質なように思えてならない。一個125万円のメロンがあったっていいと思う。それをメロンの価格として入札者が承認するのなら、それはそれでいいだろう。だが、このご祝儀相場は、「メロン二玉セット」最初の一組のみの価格なのである。

 恐らくそのメロンは、色艶や味もせりにかけられた中では最高のものなのだろう。そのメロンに125万円の値がついた。それならそれはそれでいい。だとするなら、それに遅れをとった「少し艶の落ちる二番手のメロン」は100万円の値がつくのだろうか。三番手のメロンは98万円、四番手は95万円・・・、という価格がつくのなら、私は一番手のメロンが125万円でも少しも違和感はない。例え、そんなに高価なメロンを食いたがる金持ちの贅沢さを皮肉るような気持ちになったとしても、それはそれで承認できるからである。私はそんなメロンを口にするつもりはないことを自分に言い聞かせるだけでいいからである。

 だが現実は違う。一番手のメロンは125万円の価格をつけられたのに、二番手のメロンに付される価格は僅か数千円にしか過ぎないのである。つまり、二番手以降の価格ならば、多少高めだけれど「初物なんだから多少高くてももいいや」の範囲内、つまり我々でも理解できる範囲での価格で決定されていると思われることである。

 こうしたご祝儀相場の決定は、一体どうしたことなのだろうか。一番手に付された価格を果たして「メロンとしての価格」として承認してもいいのだろうか。私にはそれは「メロンの価格」ではなく、単なる「思惑だけに振り回された架空の価格」であるように思えてならないのである。

 125万円で落札した者は、恐らくそれを例えば100等分して顧客に売るのかも知れない。ただその場合、その価格は入札価格をもとにするなら一切れ1万数千円にもなるはずである。でもそんな小片をいかに初物とは言え100人もの顧客が買うとは思えないし、また入札者も売ろうとは考えないのではないだろうか。
 恐らく入札者は「一切れ千円」かそれ以下、もしくは無料で顧客に配るような気がする。ただしその場合、こんな宣伝文句を付けての提供であろう。「これは一個125万円のメロンです」。

 入札者は、入札した価格を回収できないような値段でそのメロンを提供し、「125万円のメロンを無償もしくは極端な低額で提供します」という謳い文句で集まった顧客が、他の商品を購入してくれるかそれとも今後長く付き合ってくれる顧客になってくれるか、つまり将来的な採算を期待するのであろう。

 それはそれでいいと思う。どんな思惑で、どんな価格で入手しようとそれは入札者のまさに勝手である。だが、それを「メロンの入札価格だ」とすることに私は疑問を感じたのである。「ご祝儀相場とはそういうものなのさ」、とするならそれはそれでいいのかも知れない。だが、例えば最盛期なら一匹数十円程度で取引されるさんまの価格が、初せりでその数倍の価格で落札されるのとはどうしても整合性がとれていないように思えてならないのである。そしてその「ご祝儀相場」という表現になんの抵抗もなく同調しているマスコミの姿勢にも、どこか開き直った思いを抱くのである。

 だから私は「メロン250万円」という価格を、いかにそれが入札という形式で決定されたとしても、「メロンの価格だ」とすることに納得がいかないのである。


                                     2014.8.12    佐々木利夫


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ご祝儀相場が変だ