先週、「正義の基準」が分らなくなったと書き(別稿「正義と収賄」参照)、その中で人の命を一つの基準としてとりあげた。命についてはこれまでにも何度か書いたことがあるけれど、やっぱり分りにくい「命の重さ」についてもう少し考えることとしたい。

 いつだったろうか、こんな話を聞いたことがある。「地球上の生命の重さ=地球の重さ」だから、人口が増えるにしたがって一人当たりの命の重さは軽くなる。

 もちろんこれは単なるレトリックの綾によるジョークである。「命は地球よりも思い」は物理的な現象を言ったものではないから、命を重さをグラムとかトンで表すことなどできないからである。それでもなおこの奇妙なレトリックには、どことない説得力があるように思える。

 それは現実に「命には重さがある」からである。重い命と軽い命があるからである。「命は地球よりも重い」の意味は、恐らく「どこの誰」というような固有名詞を持たないすべての命(それが人間だけに限られるのかどうかは後に触れたい)を指しているのだと思う。つまり抽象的な命そのものが、均質で同等で等価値であることを前提にしているのだと私は思っている。
 にもかかわらず現実に私たちの前に展開している命の姿は、軽重も価値もまるでばらばらである。ばらばらと言うよりはもっとはっきり言うなら、僅かの命だけが尊重されるだけで、ほとんどの命は軽視または無関心・無視にさらされているということである。

 恐らく極論かも知れないけれど、「命は地球よりも重い」という場合の命の意味には、世界中の人々の命というよりはむしろたった一つの命、私だけの命そしてあなただけの命という、そんな思いが重ねられているのではないだろうか。

 それにもかかわらず私たちが目にする命は、総理大臣や大統領の命と無差別テロで奪われる幼児の命とではまるで違うことを、繰り返し繰り返し毎日のように知らされることでしかない。内乱が続いて隣国に避難する子どもを連れた難民の命と、例えば私が暖かい事務所でテレビを見ながらビールを飲んでいるときの私の命とでは、まるで違っているのである。それが事実なのである。「命は地球よりも重い」なんて言葉は、ここでは少しも通用しないのである。そしてそのことは世界中の誰もが、当たり前のこととして知っていることなのである。

 国連で、国会で、識者の会合で、なんならボランティアの発言で、「命がどれほど重いのか」は繰り返し語られている。でも現実に命に軽重はあるのである。どんなに大切な命だといわれたところで、命は時に無視され、放置され、捨て去られるのである。そんなことは大人だけではない。子どもにだって身に沁みるほど知らされた現実になっているのである。

 だからこそ命は大切なのだと人は言うかも知れない。それでも大切でない命が現に存在していることを、そしてそれが無視される場合のあることを、世界の誰もが当たり前のこととして知っていることとどこで整合性を持たせていけばいいのだろうか。

 一つには、命に差別なり区別があることを承認することからはじめてはどうだろうか。無批判に「命に軽重なし」などと断ずることから離れて、まずは事実を認めなおすことからはじめてはどうか。このことは命を考える上での大切な要素になると思うのである。そして最初に考えよう。「自分の命」、そして「自分以外の命」である。さて、この二つの命を比べることそのものを、あなたは非難するだろうか。それともそもそも考えてはいけないことなのだろうか。

 最近、ケネディ駐日大使が「米政府はイルカの追い込み漁に反対します」と発言して波紋を呼んでいる。また南氷洋では日本の調査捕鯨船がシーシェパード(アメリカに本部を置くNPO組織で、反捕鯨や海洋生物保護を訴えている、環境保護を自称する海賊、もしくは国際テロリスト組織として知られている)の船から航行の妨害を受けるなどの事例も見られる。

 そうしたイルカやクジラの命とは別だろうが、日本にだって例えば「動物の愛護及び管理に関する法律」などで「命ある動物を大切にしましょう」みたいな規範が国民に求められており、こうした規範は全世界に共通する思いだろう。しかし、この動物愛護管理法では、犬・猫・牛馬などは保護されても、「両生類以下の脊椎動物及び無脊椎動物」は対象とされていない。仮に蛙やイモリやミミズなどに命を認めるのだとするなら、少なくともそこでは「命の選別・区別」が行われていることは否定できない。

 命の区別や選別をすることには根強い反対がある。恐らくその背景には、「動物の持つ権利」、つまり「動物は自分では自らの命を人間に対して主張できないのだから人間が代わりに守ってやらなければならない」みたいな考えがあるのだろう。つまり「種による差別・区別の禁止」であり、権利論とも呼ばれている。簡単に言うなら、「種が異なれば生物によって別扱いしていい」とするのは人間の身勝手な驕りであるとの思いが基本にあるのだろう。

 ただこの考えを突き詰めていくと、私たちの生活そのものが成り立たなくなっていくことに気づく。ここで命を、「生物」と位置づけてしまうと、ベジタリアンも含めて人は食べていけなくなるから、私たちは生きることそのものを否定されてしまうことになる。だからここでは少なくとも「動物」と「植物」の区別をすることだけは前提として認めるしかない。

 他方、権利論に対して動物福祉論という考え方がある。動物実験や集約的畜産などの動物利用は許容されると認めたうえで、できるだけ動物に配慮していかなければならないとする立場である。

 説明として分らなくはないけれど、この考えはどこか「命の本質」からはまるで離れた、ビフテキを食うためだけに考え出された人間に都合のいい妥協案、折衷案みたいな気がしてならない。「行政官の猿知恵」という言葉があるけれど、「とりあえずこんなとこで行ってみようか」みたいな、姑息さの感じられる理屈のような気がする。こんな理屈は突き詰めていくと、権利論の考え方には対抗できなくなってしまうのではないだろうか。

 どこまで「動物としての権利」、「命の尊重」を認めなければならないのか。知能や独創性などで区別しようか。でももしかしたら、イルカやチンパンジーよりも知能指数が低い人間だっているかも知れない。チンパンジーを動物園の檻に閉じ込めるのは、果たして権利を侵害していることになるのだろうか。色を識別し迷路の奥にある餌を発見し、数を数えることができる動物がいる。そんな動物とベッドで寝たきりの植物人間とはどこで区別すればいいのだろうか。シロアリは自力では餌である木材を消化できないのだそうである。餌を消化するためには、体内に特殊な細菌を飼う必要があり、かつその細菌もまた自らの体内に生残るために必要な更に微小な細菌を抱えているという。

 どこまでを「保護すべき命」と考えたらいいのだろうか。「命」と「保護すべき命」とは区別しなければならないのだろうか。区別が許されるのだろうか。区別を強制されなければならないのだろうか。そしてもしかしたら、「保護すべき命」に認定されなかった命は、そもそも「命」とは呼ばないのだろうか、呼んではいけないのだろうか、呼ぶのは間違いなのだろうか・・・。


                                     2014.3.1    佐々木利夫


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