集団的自衛権の問題で国会が揺れている。戦争放棄を掲げた日本国憲法の解釈として、日本国政府はこれまで一貫して、「観念的に憲法は集団的自衛権を否定していないが、我が国はそうした考えを採用しない」とする立場をとってきた。それを最近の尖閣諸島や竹島、北方領土をめぐる近隣諸国との紛争が激化するにしたがって、そうした解釈を変更しようとしているのである。背景には日米の安保条約に、より実効性をもたせようとする含みがあるのだろう。

 憲法の解釈を時の内閣が変更してしまうことを許していいのかどうか、そうした変更は国民審査を経ないでなされた憲法改正と同じ結果をもたらすことにならないのかなどなど、色々問題があるように思える。そのことについてはいずれここに書くつもりではいるけれど、閣議決定は基本的には「行政の意見を統一すること」であり、そのためには全閣僚の賛成が必要で公明党の協力が不可欠であるらしい。そのため自公連立政権の下で与党内協議が盛んである。

 自民党は個別的自衛権では対処できない(つまり集団的自衛権という解釈を認めなければ対処できない)ような周辺事態対策における自衛隊の行動事例をいくつか掲げて、閣議決定に関する議論の土台にしたいようである。そうした安倍政権の動きに対して、2014.5月29日の衆議院外交防衛委員会で民主党からこんな質疑があり、安部総理大臣は次のように答えて集団的自衛権の必要性を強調した。

 問 福山哲郎・民主 「紛争が起きれば、攻撃の対象になる輸送艦に米国が民間人を乗せることはありえない。朝鮮半島で紛争が起きたとして、邦人救出できないと情緒的に議論を引っ張るのは誤解を与える
 答 安倍首相 「最初からこういう事態はないと排除していく考え方は、嫌なことは見たくないというのと同じではないか。あらゆる事態に対応できる可能性、選択肢を用意しておくことは当然のことだ

 私はこの答弁を聞いて、「至極もっともだけどどこか整合性がとれていないのではないか」と思ったのである。安倍首相の答弁は極めて正論である。「・・・あらゆる事態に対応できる・・・(ような)選択肢を用意しておく」ことは、特に我が国が外国から侵略を受けるような事例を念頭に置くようなときには必須の要件であろうことに異論はない。たとえそれが「万が一」の可能性であっても、そうした事態が起きた時に「事前に検討していなかったため、手をこまねいているしかなかった」なんて言い訳は許されないだろうからである。

 その万が一の想定が、個別的自衛権で対処できることなのか、集団的自衛権まで拡大しなければ対処できないことなのか、仮に集団的自衛権の発動まで考慮しなければならないといしてもそれを政府の解釈変更でできることなのか、それとも憲法改正までの手続が必要なのかなどなど、問題は山積するかも知れないけれど、「検討しない」という選択肢の許されないことではあるだろう。

 そうした意味で、安倍首相の答弁は理に叶っていると思う。首相が答弁の中で「嫌なことは見たくないというのと同じではないか」と言ったことは、まさに正鵠を得ているように思う。特に人が抱く「嫌なことはみたくない」との思いはやがて、「嫌なことは考えたくない」、「そんなことは起きないだろう」との思いに移行し、その思いを正当化するために「多少のことは台風一過、我慢すべきだ」、「費用がかかりすぎて対応できない」、「起きる確率が低いから後順位にまわす」などの理屈をつけ、更には「そもそもそんなことまで考える必要はないだろう」、「そんなことは常識的に起きない」との考えにまで責任を転嫁してしまうことが多いからである。

 こういう発想は行政に限らずある程度巨大化した組織の意思決定に多く見られ、巨大化の最たるものである政府や政治などに発想に顕著であるような気がする。にもかかわらず一国の首相がここまで踏み込んで、「嫌なことでも、起きる可能性のあることに対してはとことん対応できる体制を整えていくべきだ」と公開の国会で発言したことは、意外でもあり同時にすごいことでもあるように思う。

 でも、でもである。そうした答弁に適合する問題は国防問題だけであろうか。我が国を防衛する問題だけが、「あらゆる事態に対応できる」対策が必要な唯一のケースなのだろうか。もちろん、物事に軽重のあることは知っている。朝の出勤途中で雨が降るかどうかを判断するときには、恐らく「万が一」は考えなくてもいいだろう。私なら十に一つ、二つに一つの確率でも傘を持たないかも知れない。その結果雨に降られて洋服を濡らしてしまったとしても、それは自業自得程度の話で済むことだからである。こんなことに万が一を考えてしまったら、そして更には誰も予想できないような天変地異が起きることまで可能性として考慮してしまったら、恐らく傘を持つことは通勤の必須要件になってしまい、傘なし通勤など考えられないことにまで至ってしまうだろうからである。

 だから国防に関しては「万が一」までを考慮する、通勤の雨に関してはせいぜい「二つに一つ」の可能性くらいまでにレベルを下げる、もしくは濡れてもいいやと降らない僥倖を頼みに傘を持たずに出かけるようなことがあったとしても、そうした選択のレベルの違いに特に異を唱えることはない。それでも私は、果たして「あらゆる事態に対応できる状態」を整えておく必要は、国防だけに限られるものなのだろうかと思ってしまうのである。

 日常的に意識することは少ないだろうけれど、「国防」は日本民族に限らず、世界のどの国の人々にとってもアイデンティテイを形成する基本的なことがらだと思う。日本人は日常的に「祖国」を意識する機会はほとんどないだろうけれど、「日本という国があっての日本人」であるという意識は、日本人として生きていく上のバックポーンになっているのではないかと思っている。

 それはまさしく程度の問題かも知れない。国防の問題と通勤に傘を持つかどうかとの間には天と地ほどの違いがあることは理解できる。それでも私には「国防だけが唯一100点」で、それ以外のテーマはすべからく国防より劣後するものだとは到底思えないのである。もちろんあるテーマが国防に比べて何点くらいの値しかないとの評価をするような能力は、私にはとうてい備わっていない。だから評点をつけられないまま、こうした問題を俎上にあげることは不遜なのかも知れない。そのことを理解しつつ、それでもなお私は、安倍首相の言った「あらゆる事態に対応できる体制を整えておく必要がある」と言えるようなケースは、世の中にいくらでもあるように思えてならないのである。

 例えば「原発再稼動」の問題を考えてみよう。再稼動での最も重要なテーマは、安心と安全である。現在、日本の原子炉は定期点検待ちも含めて一基も動いていない。その背景には三年前の東京電力福島原子力発電所における凄まじい事故の影響があることは疑いのない事実である。それは本当に国防よりも劣後するものなのであろうか。

 原子炉崩壊と再稼動についてはこれまで何度も書いてきたが、安倍首相の発言でまたまたこの問題に引っかかることになってしまった。原子炉事故の可能性を前にしてどこまで安全性を考慮すべきかについて、私には今回の集団的自衛権について述べた安倍首相の発言が大きく関係してくるように思えてならない。それでこの発言をテーマにもう少し話を続けたいと思う。

                               嫌なことは起きない(2)へ続きます。


                                     2014.6.11    佐々木利夫


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嫌なことは起きない(1)