嫌なことは起きない(1)からの続きです。

 これまで何度も書いてきたのに再び原子炉崩壊と原発再稼動を取り上げ、そのことに安倍首相の発言を重ねたのは、原子炉問題もまた国防に劣らず日本人にとっての重要なテーマではないかと考えたからである。

 念のため、安倍首相の集団的自衛権に関する国会答弁を再掲しよう。

 問 福山哲郎・民主 「紛争が起きれば、攻撃の対象になる輸送艦に米国が民間人を乗せることはありえない。朝鮮半島で紛争が起きたとして、邦人救出できないと情緒的に議論を引っ張るのは誤解を与える
 答 安倍首相 「最初からこういう事態はないと排除していく考え方は、嫌なことは見たくないというのと同じではないか。あらゆる事態に対応できる可能性、選択肢を用意しておくことは当然のことだ

 もちろんこの発言は、「集団的自衛権の承認という判断」を憲法解釈の中に内閣の意思として含めたいとの思い、つまり閣議決定として宣言したいとの意思の表れであろう。ただ首相自身もこの発言に例えば「国防に関しては・・・」との条件を付しているわけではないから、この答弁の見解は少なくとも「国防問題に限らず他の同程度の問題に対しても適用される」と理解してもあながち間違いにはならないだろう。

 さて前回の「嫌なことは起きない(1)」でも触れたところだが、原発の再稼動に関して国民がこれほど心配している背景には、原発の安全に対する不安がある。それは単に事故の可能性に対する不安だけでなく、使用済み核燃料の後始末をも含めた不安である。

 原発再稼動に賛成する意見のあることを知らないではない。でも私にはそうした賛成意見の多くが、原発の工事や発電から直接の利益を得られる者や原発から遠く離れていて仮に事故が起きたとしても直接の被害を受ける恐れのない者に限られているように思えてならない。前者は直接の利益享受者であり、後者は無関心かつ少しでも電気料金が安いほうがいいという目先の利害だけを根拠とする者である。

 原子炉崩壊による事故は、事故から3年有余を経たというのにまだほとんど修復されていない。崩壊した原子炉の廃炉処分もまだ緒についたばかりだし、汚染された地域の除染は作業がされているにもかかわらず、少なくとも事故以前の放射能状態にまで戻った地区はない。

 政府は一定の放射能レベルを示し、その基準値以下だから地域や食品が安心、安全だと言う。だがその基準を信じているのは、そこから利益を得ようとしている者に限定されているように思えてならない。ではどうして住民はそうした政府や専門家の基準値宣言を信用しないのだろうか。どうして不安を払拭することができないでいるのだろうか。

 それは簡単である。政府や専門家の宣言が住民の心に届かないからである。つい数日前、福島県の汚染土を保管する中間貯蔵施設の建設をめぐり、石原環境大臣が記者会見で「結局は金目だろう」と言った。その発言に施設を建設する予定地の地元の住民が反発したのも、そこに為政者の本音が見えると感じたからであろう。いかに誤解を与えた発言だったと謝罪し国会で発言を撤回したところで、その真意はしっかり国民に伝わっている。
 つまり国は、住民による反対意見や不安の表明も、つまるところ政府からの補助金や補償金が目当てではないかと思っているのである。そしていずれ補償金や補助金をばらくことでそうした反対意見は政府の思惑通りの形で収束していくものだと思っているからである。

 起きた事故を消したり、起きなかったことにすることなどできはしない。時計を戻すことはできないのだから、同じ事故を繰り返さないこと以外に、起きてしまった事故の教訓を生かすことなどできないだろう。だとするなら、一番簡単なのは事故前と同じような状態にまで戻すことである。もちろん死者を生き返らせたり、倒壊した建物を倒壊しなかった状態に戻すことはできない。でも、放射能値を事故前の状態にまで戻すことができれば、そして二度と絶対に同じ事故を起こさないとの保証が得られるならば、少なくともその地域に人は戻ってくるだろうし、原発の再稼動だって承認されるだろう。

 だが現実はどうだ。放射能の測定値が基準値以下だから戻ってきていいと言われたところで、その基準値は汚染前の値や他の汚染されなかった土地のレベルをまだまだ上回っているのである。「多少高くても、政府の宣言した基準値を超えなければ安全だ」と政府や原発容認者はいうかも知れない。だが安全の保証を心から信じている者など誰もいない。

 どうして政府は「事故前の放射能値に戻りました」と言わないのだろうか。答えははっきりしている。もとへ戻せないのである。どんなに金をかけて除染を続けても、事故以前の放射能値に戻すことはできないのである。不可能なのか、それとも予算がかかり過ぎるからなのか、私に判断することはできない。だが少なくとも現状では「事故前の状態に戻すことはできない、もしくは戻すことまでは考えていない、戻す気はない」ことははっきりしている。つまり「もとに戻すのは、原状では不可能」ということである。

 遺伝も含めた放射能の将来にわたる影響については未知数のままである。放射能の発見や事故の影響に関するデータの積み重ねなどの研究は短く、現在では誰にも的確な判断はできないのである。それは政府だって同じである。だから誰も安全宣言を信じられないのである。「匂いも味もなく、将来の影響もまったくの未知数である放射能」に対しては、「事故以前の状態に戻りました」との宣言以外に説得力ある説明を私は知らない。知らないだけでなく、「それしかない」のではないかとすら思っている。これが現に放射能の危険にさらされている人たちの思いなのではないだろうか。

 最近の新聞にこんな記事が掲載されていた。宮城県丸森町では原発事故のあった直後、専門家を招いて住民向けに放射能に関する講演会を開催したそうである。そこで発言した専門家の語る回顧談である。「当時は研究者として、その時点までの知識とデータでものをいうしかありませんでした。逆に、安全でないというなら、根拠を示さなければならなかった。それがないから安全だといったんです・・・」(2014.6.19、朝日新聞、プロメテゥスの罠、東北大の石井慶造(66))。

 「安全でない」という知識やデータがなかったから「安全だといった」というのである。この発言者は「当時は・・・」と前置きを置くことで、現在は反省しているような気配を示している。でも学者が専門家として何も知らない住民に「安全だ」と宣言をしたのである。それを後になって「安全でないとのデータがなかったから安全だといった」などと言いのけるとは、何たる無責任であろうか。ことは放射能である。後から「ごめんなさい」と言って済むような問題とは、次元が違うと思うのである。

 そこで再び首相答弁の登場である。原発事故が起きる可能性や放射能の現在将来に対する影響もまた、国防に限らず日本人、そして多少なりとも放射能に汚染された地域の住民にとって重要な課題である。国防に関してなら場合によっては同盟国による安全保障協定や外交交渉などの手段があるだろう。だが放射能にこうした救いはないだけに、問題はもっと切羽詰っていると言っていいのかも知れない。
 だからこそ少なくとも放射能に関しては、「絶対安全」が誰の目にも分かる形で国民の前に示されて始めて安心できるのではないかと思う。そうした安全の形が具体的に示されないうちは、放射能に関しては、やはり首相の言う「・・・あらゆる事態に対応できる可能性、選択肢を用意しておく」ことが必須の要件になるのではないだろうか。そしてそれは「程度の問題」で片付けたり、「人、金、物が足りない」で済ましていい問題ではない。

 もしかしたらそうした意味での「安全」は、不可能を強いることになるのかも知れない。不可能を強いることの許されないことくらい、私だって知っている。「出来ないことをやれ」とまで要求することは無茶である。ならば次善の策がある。「絶対安全」の答えを誰の目にも明らかな形で国民の前に示すことができないなら、できるようになるまで原子炉再開発を封印することである。放射能を無害化できるまで、放射能廃棄物を少なくとも現在以上に増やさないことである。

 私は、安倍政権の行方が日本本来の行くべき道から次第に逸れていっているのではないかと思っていた。でも少なくとも首相が自衛権の問題のみに限らず、「あらゆる事態に対応できる可能性、選択肢を用意しておくことが必要」との判断を国民に向かって示したこと、そして原子炉再開や放射性廃棄物の処理なども含めて「あらゆる事態に対応できる行動」を見える形で実行していくなら、この政権を見直してもいいのではないかと思い始めているのである。

                                     2014.6.20    佐々木利夫


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嫌なことは起きない(2)