人はいくらでも向上や進化を続け、その作り上げてきた世の中に普及する味、製品の性能、生産や経済などの効率など、あらゆることがどんな時にも前年と比べて拡大していくと信じているのだろうか。そんなことが不可能であることくらい、私たちはこれまでの長い歴史や人生の中で人も社会も挫折や後悔や失敗などを繰り返してきた事実を目の当たりにして分っていたのではなかったのだろうか。でもそうした事実にあたかも気づかないフリをしているかのように、背伸びを続けようとあがく事例をいくつも見ることがある。

 それが希望だとか向上心に結びつくのならそれほど抵抗はないのだが、金儲けなどの意識が透けて見えるようなときには、なんだかとても嘘臭いような気がしてくる。
 そんな一つに農産物に対する生産者の発言が気になった。もちろんそうした発言を私が知る機会は、私が産地へ行って自ら聞くようなケースはほとんどないから、結局はテレビなどのメディア経由によるしかない。そんな時に、どうして生産者は例外なく「今年の○○(色々な産品)は去年よりもうまい」とか「あまい」とか「おいしい」などの連発に終始してしまうのだろうか。どうして「今年の出来は去年よりちょっと悪い」みたいな表現が出てこないのだろうかといつも思ってしまうのである。

 自分の作った農産物が少しでも高く売れて欲しいという気持ちが分らないではない。不味いものを去年よりももっと沢山買え、というのは言い難いことが分らないではない。でも毎年毎年、同じような言葉を聞かせられていると、つい「そんな馬鹿なことなんかあるものか」と思ってしまうのである。「そんなはずはない」と思い、農家はきっと嘘を言っていると思ってしまうのである。

 品質改良や植え付けから収穫までの熱心な手間をかけることによって、生産した産品の質が年を経るごとに止むことなく向上していくという事実を否定するだけのデータを私は持っていない。だから農家の言う「去年よりもうまい」との発言が、嘘だという証拠をここに示すことはできない。本当に去年よりもうまいのかも知れないからである。

 でも、例えば10年間も毎年連続して、その産品の美味さが止まることなく上昇するということなどないのではないかと、私はどこかで確信めいた意識を持っているのである。農家が少しでもいい商品が出来るように日夜努力しているだろうことを否定するつもりはない。でも農産品というのは基本的に天候や気候に左右されることが宿命とされる商品ではないかと思っているのである。

 春先に低温が続いた、6月の降雨が多かった、8月の猛暑で被害を受けたなど、その年の気候による情報は公知とは言えないまでの多くの人たちにとって共通している体験である。だから農家もそうした事実を否定するようなことは流石にできないようだ。

 それでも農家は、「低温で粒は小さくなったけれど、その後に晴天が続いたため今年の○○はとても甘くなった」、「収穫期の天候は不順だったが、夏の雨が十分だったために去年よりもおいしくなりました」、などと今年の作柄についての評価を続けるのである。決して「昨年よりは甘さが足りないけれど、十分おいしく食べられます」とか、「冷夏で今年の○○はいまいちです。来年は美味しく作ります」などの言葉を生産者の口から聞かれることはないのである。

 「おいしいからたくさん買ってくれ」との気持ちが分らないではない。でもそうした言葉を無責任に続けることは、結局消費者や少なくともテレビの視聴者を欺いていることになると思うのである。だからと言ってテレビの視聴者は、恐らく生産者を「嘘つき」とは思わないかも知れない。せいぜいが「誇大広告」、「またいつものほら吹きか・・・」程度ではないかと思う。でもその意識の底には、「去年よりもおいしいとの言葉を信じない」という気持ちがあるのではないだろうか。毎年毎年、「去年よりもおいしい」を繰り返す農家の姿は、そのまま「生産者の言うことは信じられない」との風潮を、私たちに与え続けているのではないだろうか。

 「おいしい」との言葉を嘘というのではないと思う。それはきっと、「これはりんごです」とか「これはきゃべつです」と言うのと同じように、なんの評価も伴わない単なる無機質な言葉の羅列になってしまっているような気がしているのである。そしてそれは、本当に「おいしい」ことを伝えたいときにまで、その美味しさを伝わらなくしてしまっている、つまりそうした必要な情報が伝わらない言葉の素地を自らが作ってしまっていると思うのである。

 大阪のあるスーパーが、まだ未熟な果物に「まだ収穫には少し早くて美味しくありません、砂糖やミルクを添えて食べてください」との表示をして店頭に並べたという話を聞いたことがある。それでもいいと思う客は、その商品をかごに入れるだろう。それでいいのではないかと私は思う。「おいしいです」、「甘いです」、を連発して、「味は買った客の責任だから販売者は知りません」みたいな売り方よりは、消費者の好感度は高まるのではないかと思う。人は味よりももしかしたら「信用」を買うのかも知れない。昨年巷を賑わしたレストランや老舗ホテルなどにおける偽装メニュー問題(別稿「偽装メニュー物語」参照)も、結局は「人はメニューにごまかされて手を出すものさ」などと消費者の味音痴を冷ややかに論ずるのではなく、信用される看板を消費者に提示することこそが提供者の良心である、との意識が問われたのだと理解すべきではないだろうか。

 このように毎年上昇し続ける「おいしい」の連鎖は、単に農産物に限るものではない。海産物も同様に「去年よりも美味い」を性懲りもなく繰り返しているし、新年の初せりの感想を求められた市場関係者の話も同様である。「去年よりも美味い・良好」を繰り返すのは売り上げに関係する者としては本音なのかも知れないが、本当に毎年毎年味は上昇していると本気で思っているのだろうか。

 もし本当に上昇すると信じていて自分の舌もその事実を裏付けているのだとするなら、生産者も関係者も「美味しさを人に伝える舌を持つ者」ではなく、「販売促進の役に立つだけの舌、もしくは口先だけしか持っていない者」と言っていいのかも知れない。


                                     2014.1.8    佐々木利夫


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