賢人の知恵(1)からの続きです。この本で彼が書いていることは、そのほとんどが私たちが昔から融通無碍な人を評してレッテルを貼っていた、「曲がり真っ直ぐ」なことばかりだと思う。それは「実行できないようなことをもっともらしく言うな」の思いを私に伝えるものであった。だが読み進めていくうちに、そうした思いはそのまま我が身に貼りたいような気持ちにもさせてくる。つまりここに書いてることは、自分がこれまでに発表してきた多くのエッセイに対する自己批判のような気持ちを引き起こすのである。

 No7 「自分と対極にある人とつきあう」 見習いたいと思えるような人を手本にしよう。尊敬する人に常に接し、その判断力や態度、ふるまいを学びとろう。自分の欠陥と対極にある人とつきあうこと。

 確かにそうした人と付き合うことは望ましいだろうし、理想だろう。でも人が「自分と対極にある人」とつきあう機会が果たしてどれだけあるのだろうか。そして対極にある人からそこまで自分を分析する材料を得ることが可能なのだろうか。

 No82 「穏やかに話す」 穏やかな言葉には心の優しさがこもっているが、厳しい言葉は心を突き刺す。相手を励ます言葉で穏やかに話せば、敵でさえ態度を軟化させることがある。

 「こんなことくらいちゃんと分っている」と思う。だから改めてこんな風にいわれると、逆に苛立ってくる。No9で彼は「・・・好感を持ってもらう秘訣は同類であることだ」と言っているのだし、ましてや前項(No7)のように対極にある人と付き合いそこから人は学ぶべきだとまで言われてしまうと、「そこが難しいのではないか」、「無茶なことは言うな」とつい反論したくなってしまうのである。

 No33 「真の友を見つける」 真の友に値する人はそうたくさんはいない。しかも、その価値ある少数を見分けられない人が多い。・・・何年にもわたって長くつきあえる友人を選ぼう。・・・個性のしっかりした友人を選ぶといいだろう。

 だが私は、ここでも彼は不可能を要求しているような気がしてならない。どうしたら、付き合っている友達が長く付き合えるような真の友なのか、そこそこ知人として付き合う程度の並みの友なのかを判別することができるのだろうか。極端に言おう。「100万円貸してくれ」と申し込んで、それに対する返事で区分することはどうだろうか。

 No25 「人を利用する人物に気をつける」 自分の責任を人になすりつけるような人物に気を許さないこと。相手の意図を初めから見抜いて、利用されれないようにしよう。

 ここでの彼の要求は群を抜いている。人物の見極めについて、「初めから見抜く」ことを要求しているからである。そんな人が果たしているのだろうか。いるかも知れない。恐らくそうした相手は、例えば黒服黒眼鏡を常備している暴力団構成員、麻薬常習者、愚鈍魯鈍と誰からも評価されている者などなど、外形的に判断できる者に限られるのではないだろうか。そしてそうした判断は外見のみに頼った予断や偏見に満ちたものか、もしくは誰にも判断を誤ることなどないくらい常識的に見極めがつくケースに限られるのではないか。もしそうだとするなら、彼の「初めから見抜く」という思いは、誰にでもできることをさも特別な意味を持たせるかのように装っただけのことなのだろうか。

 No27 「愚かな人に煩わされない」 愚かな人が見分けられないなら、自分もその同類となる運命だ。

 人はすべて、いずれは「愚かな人と同類になる」という選択肢しか持ち合わせていないのだろうか。

 No29 「相手の気質を見分ける」 かかわる相手の気質を見分けることはとても役立つ。内面がわかれば行動を予測できるからだ。

 彼の要求はどんどんエスカレートしていく。今度は「相手の気質」である。私なんぞは俗人だからそう思うのかも知れないけれど、「相手の気質」にまで踏み込まないと相手を理解できないとするなら、私たちは見分けられないからこそ多くの他者と付き合っていけるのではないかとすら思う。相手の気質を理解しその行動が予測できてから相手と付き合うことは、私たちにとって一番安全な手段かも知れないけれど、「他者と付き合う」ことの大きな意味を著者は無視してしまっているのではないだろうか。

 No30 「人を正しく判断する」 人を見誤ってしまうのはたやすく、しかも最悪のことだ。・・・

 この項目に対するコメントは、タイトルを掲げるだけで十分だろう。正しく判断することが可能であるなら、世の中は何も問題ないくらいスムーズに進んでいくことだろう。でも私には神ならぬ人の身に対するこうした要求は、まさに「ないものねだり」でしかないように思えてならない。

 ・・・・

 この本で彼は、延々と240項目にもわたってこうした論述を展開させている。そのほとんどが私には、「ないものねだり」のように思えてならないものばかりである。

 私はこうした彼の言葉について、これまで2回に分けてどちらかというと批判めいた思いを展開してきた。だが、私は彼の言葉が嘘だとか間違いだとかと言いたかったわけではない。むしろこうした彼の言葉を素直に受け入れられなくなっている我が身の狭量さに、いささかの自己嫌悪を感じていると言ったほうがいいのかも知れない。

 きっと彼の生きていた時代、彼はこうした意見を真剣に考えそして人に伝えたのだろう。そして彼の話を聞き、彼の著作を読んだ多くの人々が、彼の信念に共感しいつまでもその思いを残したいと願ったのだろう。そうした思いが、400年という途方もなく長い時を超えて彼の言葉を残してきたのだろう。

 だがそうした思いを少なくとも私は、「ないものねだり」だとして切り捨てようとする。少なくとも私の心に、彼の言葉を許容しようとするゆとりがなくなっていることを感じる。それは単に時代の変化と言い切ってしまって良いのことなのか、それとも人の心が狭くなってきてそれに私が追随し影響されてきているからなのか、私は必ずしもきちんと理解できているわけではない。

 ただ、彼の言葉が正論であることを理解しつつ、それでもなお「理解不能」、「実現不能」と切り捨ててしまおうとする心に、私はどこか後ろめたさを感じている。気恥ずかしささえ感じている。切り捨てるのがどこか間違っているような気もしている。それは単に自分だけの思いなのかも知れないけれど、「狭くなっている心」への変化が、多くの人や世界中の人の心へも伝染し蔓延していっているように思えてならない。

                                     2014.6.26    佐々木利夫


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賢人の知恵(2)