「地に満ちよ(2)」からの続きです。

 前回は、「聖書における人とは何か」が分らなくなっていることについて書いた。これまでの考察で、キリスト教といえども人類皆兄弟みたいな広範な世界観を持つものでないことは、理解できたような気がする。ローマ法王が世界を回り、時に国連に出向いて事務総長と会談したところで、所詮はその基礎をキリスト教、そして聖書に置く限り、「人とは何か」のテーマから逃れることなどできないのかも知れない。

 ところで日本人はどんなものにも命があると信じてきた。それは「どんなものそれ自体」に動物と同じような命があるというのとは違うかも知れない。ただ、「どんなものにも」機会さえ与えられるなら、神が宿り魂が宿ることがあると信じてきたように思う。その「どんなもの」の範囲には、建物や田んぼや山川草木などの有形物を超えて、「お正月の年神様」などのように一種の行事や祭祀などの抽象的な観念にまで及んでいる。

 輪廻転生が仏教独自のものなのか、神道や儒教やヒンズー教などの東洋的な宗教にも通じるものがあるのか、私は必ずしもきちんと理解しているわけではない。だが仏教が考えるような万物には命があり、死は「個体としてのその物体」が単に滅ぶだけであって、命そのものは他の個体へと引き継がれるとする思いは、引き継がれる個体にそのとき命は存在していたのかの問題は脇に置いておくこととして、とても興味のある考えであり理解しやすいものを持っている。そうしたとき、人の命と人以外の命とは当然区別できないものとなるだろう。つまり「人の個体に宿った命」だけが「人の命」だとは言えないことになるのだから、目の前にいる昆虫だってもしかしたら人の命を引き継いでいるかも知れないからである。

 ただ私たちに広く信じられているそうした場合の命とは、どうしても人間に類似する命に限定して考えられているようだ。輪廻転生として継続される対象の中に、例えば蟻や蚊のような微小な動物や木や草などの植物は含まれていないように思えるからである。あるものに神が宿る、もしくはそのものが神自身に変身すると信じられるような無機質的なものや、「精神的なある種の思い」みたいなものに対する転身なども、同様に含まれていないように思う。つまり命が引き継がれるのは、せいぜいが我々の身近にいる家畜やペット程度の鳥獣の範囲に限られているのではないかということである。

 それでもこうした東洋的な考え方は、モーゼが神から与えられた十戒の第一に掲げられているような、「わたしのほかに、なにものをも神としてはならない」(出エジプト記20章3節)とする一神教の基本理念とはまるで世界観が違っている。一神教は「闘って勝ち取る人生」を人々に示唆しているような気がするし、反対に多神教は「諦め」を基本においた考え方へとつながっているように思える。だからその違いは現代においてまるで異なった方向へ進んでいるように思える。

 もう一つ私が聖書に「人とは何か」の疑問を感じさせたのは、聖書が語るアダムから現代の私たち人類へのつながりについての記述であった。神は自らの姿に似せて人を創った(創世記1章27節)、のである。つまり神は神の姿に似せてアダムを生みその肋骨からイヴを創ったのである。そしてイヴは二人の男の子、カインとアベルを生んだ(創世記4章1節、2節)。男二人でどうして子孫たる子供が私たちまで続いたかの疑問はひとまず置くとして、カインは長じて嫉妬から弟アベルを殺し、私たちはその系譜に連なるいわゆる「カインの末裔」としてカインの罪を背負うことになった・・・、少なくとも私はそう考えていた。

 だが聖書は別の展開を私たちに知らせる。「・・・アダムは130歳になって、自分にかたどり、自分のかたちのような男の子を産み、その名をセツと名づけた。・・・アダムの生きた年は合わせて930歳であった。そして彼は死んだ」(創世記5章3節〜5節)

 聖書はこの後セツに連なる子孫の系譜を延々と語る。聖書のこの記述は、もしかしたら私たちがカインの子孫ではなく、セツの血を引くものであることを言いたかったのではないだろうか。聖書はどうしてカインとアベル以外に、130年後に生まれたセツと呼ぶ第三子を登場させ、しかもその子孫の系譜を延々と書き連ねたのだろうか。「カインの末裔」という言葉は有島武郎の同名の小説のタイトルであって、聖書やキリスト教の用語のなかに含まれているわけではない。だが私たちは原罪と呼んでいる一つの思いの中には、我々が「カインの末裔」であることの引きずり、つまり人は殺人や妬みや憎しみから逃れられないという現実と、そうした現実に対するおののきを、人が持っている切り離せない意識として残したかったのではないだろうか。

 たった数語の「生めよ、増えよ、地に満ちよ」の中にも、まだまだ私の知らない新しい世界があることを知らせてくれる。知らない世界が存在することなど矮小な私からすれば当たり前のことではあるけれど、読書や雑文の発表が、独断にしろ偏見にしろこの歳になってもまだ新しい世界があること知らせる希少な機会を与えてくれた。「物語としての聖書」がまた少し楽しくなってきたように思える。


                                     2014.6.6   佐々木利夫


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地に満ちよ(3)