地に満ちよ(1)からの続きです。
 私は命を一つの連続体のような形でとらえていた。人間の命はそのまま猿や犬の命につながるものであり、もっと言うならそれはそのまま昆虫や植物、さらには細菌の「生きていること」にまで続くものとして考えていた。だから動物愛護という考えにしても、動物保護法という法定された特定の動物の保護の枠内に限られるのではなく、「命を愛する」という考え方の中にどこまで動物の保護を考えていけばいいのか、植物の命は考えなくていいのか、コレラを絶滅することと動物の命とはどこで折り合いをつけたらいいのか、などの整理に私は悩んできたのだとも言える。
 それはそのまま、例えば話題になっている捕鯨問題にもつながることになる。極端に言うなら、ビフテキを食う奴が鯨刺しを食うことに対する批判の矛盾である。

 でもその矛盾に対する私の思いは、この旧約聖書の創世記9章を読んだことで、根本から考えなおさなければならなのかも知れないと思ったのである。聖書は人以外の動植物の全部が、人のための食物として神が創り上げたものだと考えているのである。そしてそうした考えは牛や豚を食べることと、クジラを食べることを非難することとは必ずしも矛盾しないのかも知れないと思ったのである。

 つまり基本的に人間以外の動物や植物の命はそもそも「人の食料」としての位置づけにあるのだから、そこに「命を奪う」という罪の意識みたいな考え方そのものが成立しないと考えていいのではないかということである。猿の頭をかち割って食卓に並べその脳みそをスプーンで食べることや、血の滴るステーキをナイフで切り分けて頬張ることだって、それは「動物の命を奪うことの罪深さ」とは次元が違うということである。猿や牛は、人が食料として利用するために神様がこの世に創ったものだからである。

 だとするなら、人以外の命を奪う行為に人は何の罪を感じる必要もないのである。例えばそれは私たちが毎日米の飯を食べることと何の違いもないことになる。少なくとも私たちは米を食べたり納豆を食卓に並べる行為について、「米の命を奪っている」、「大豆の命を食べている」などと考えることはないだろう。仮にそうした思いが頭をよぎることがあったとしても、それは「食料とするために農家が生産しているのだ」し、山野に自生しているわらびやたけのこなどにしても、放置したままでは枯果ててしまうのだし、しかも毎年再生してくるのだから無理に「命をう奪う」みたいな考えを持ち込まなくてもいいだろうみたいな理屈の中に、あっさりと自分を納得させてしまうことだろう。

 猿の命と米の命とではまるで違うと言うかも知れない。牛の命とゴキブリの命だって、意味も重さも違うと言うかも知れない。それでは「命の違い」とは「程度の違い」なのだろうか。ただ私には、「程度のどこか」に線引きして区別することよりは、むしろあっさりと「動物や植物は人の食料として神が創ったもので人の命とは別異なものだ」として割り切ってしまうことの方がよっぽど合理的に思える。

 それでは動物愛護はどこから来ているのだろうか。恐らくそれは「食料」から分離した、「愛玩」、「ペット」としての特別視、そして「食べること以外を目的とした虐待」などへの心理的圧迫からくるのではないろうか。また「食料としての飼育」にしたところで、食べること以外の目的で命を奪うことは食糧生産の目的そのものを阻害する行為だろうから、禁止することは当然ともいえよう。

 だがこうした考えは同時にまた人種や階級に関しても同じ考えに行き着くような気がしてくる。神は我が身に似せて人を創ったけれど、その「人」とはアダムとイヴなのだから、もしかしたらその「人」の中に「黒人」は含まれていなかったのかも知れない。また、奴隷なども人として考えられていなかったのかも知れないと思ったからである。

 聖書がどのように成立していったかは興味深いものがあるが、キリスト教の中にも様々な考えや対立があり、聖書の成立とはそうした多様さの中からどのような考えを選択するかの過程でもある。聖書はさまざまな言い伝えの中から一定の意図の下に編集された伝承の集合体である。だから今ある聖書は、ある特定の集団が聖書として保存したいと望んだ伝承の集合体である。だから、そうした集約の過程は教義としてふさわしくないとして除外したもの、記録として残しておいてはいけないとして封印され破棄したもの、などを数多く含んでいるのである。

 そんな過程を探った研究の中にこんな主張があるのを見つけた。「・・・そのような対立は、単に個人的な言い争いや権力闘争以上のものを含んでいた。しかも、それは、根幹にかかわる問題を提起していた。すなわち、いったい誰が本当に、『福音』を『理解』しているのか--それはどのように実践されるべきなのか--さらに、奴隷たちはどうすべきなのか--キリストにあって自由でありながらも--彼らの地上の主人たちから開放されるべきであるのか。異邦人の改宗者もユダヤ律法の諸規定を遵守すべきなのか・・・」(『ユダ福音書』の謎を解く、エレーヌ・ペイゲルス著、河出書房新社P74)

 少なくともここでは「奴隷は神の創った人なのか」への迷いがある。また異邦人も同様な立ち位置にある。人とは何かについて私が始めて考えたのは、高校を卒業して就職した税務の職場研修で始めて刑法を学んだときであった。それはなんの疑問もなく理解できていた刑法199条の「人を殺したる者は、死刑・・・に処する」の人の意味についてであった。人の子が受精した卵子から出産までのいつの時点で胎児から人になるのか、それはとてつもなく大きなテーマであり疑問であった。そしてそのことは更に拡大して、類人猿から人類へと進化したのはどの時点からなのかなどの疑問へもつながる問題でもあった。

 「人とは何か」の疑問は、聖書で語られるモーゼの十戒からもうかがうことができる。第六の戒めは有名な「汝殺すなかれ」だけれど、この言葉はあまねく人が人を殺すことを禁じたのではなく、せいぜい自分の所属する民族に限定された「人」であり「汝」であると理解されている。なぜなら、モーゼのこの言葉はイスラム教徒に向けて発せられたものだからである(申命記5章1節)。

 しかもこの言葉は、今回のテーマとは外れてしまうけれど、「殺す」ことがどんな場合でも禁止されているのではなく、禁止されているのは「殺すために殺す」ことだと言われている。つまり「守るために殺す」ことまでは禁じたものではないということである。そうした時、この「守るため」の範囲は、「自分を・・・」、「家族を・・・」、「国を・・・」、「社会を・・・」、「正義を・・・」、「財産を・・・」、「名誉を・・・」などと際限なく広げていくことが可能である。

 この主張を許すなら、現在まで延々と続いてきた戦争のすべてや、内乱やクーデターやテロや革命などなどのすべての暴力、人が人を殺す暴力のすべてが認められるてしまうことになるのではないだろうか。そしてそれはもしかしたら、私たち日本人が大切にしている日本国憲法の戦争放棄への信条を打ち破ることにもつながっていくような気がする。日本はいまそんな中で、個別的自衛権であるとか集団的自衛権などの解釈の変更を通じて、「守るための力の行使」の範囲を少しずつ拡大しようとしていっているのだろうか。

 なんだか自分の中で収拾がつかなくなってきました。
       考えを整理するために、もう少し続けたいと思います。「地に満ちよ(3)」へ続きます。


                                     2014.5.28    佐々木利夫


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地に満ちよ(2)