過去や未来を含めて、人が個人として背負う世界に様々な態様があるだろうと考えることに、それほど違和感はない。少なくとも人の生涯を、「生まれる前」、「生きている現世」、そして「死後」の三つに大別して思いを巡らすことくらいは、恐らくどんな民族にも共通して見られることではないかと思う。だからそうした分類が三つから六つに増えたところで、それほど不自然なことだとは思わない。

 仏教に六道という考え方がある。「地獄道」、「餓鬼道」、「畜生道」、「修羅道」、「人間道」、「天上道」の六つである。ただこの分類の中で、「天上道」だけが極楽のような天国を意味し、これ以外の五つはどこか望ましくないものの羅列になっているようなのが気になって仕方がない。ただその中の「人間道」というものも、私たちが住み生きている今、つまり現世を意味しているのか、それとも人間の生活そのものが「耐えがたい世界」の一種としての地獄を形成していると考えているのかは、必ずしもきちんと理解できているわけではない。

 考えてみれば私たちが日常的に生活している現世だって、貧困や怨嗟や暴力などの耐え難い理不尽に満ち満ちているのだから、この世も一種の地獄なのだと考えたところであながち荒唐無稽な思いだとは言えないだろう。だからそのまま、「生きている今」を耐えていくことが人の人生の一部、つまり生きていることなのだとする考えにも共感できるものがある。

 ただ「人間として生きていく不幸」みたいな同種の不幸を、あえて現世と死後の二度も繰り返す必要もないような気のしないでもない。だとするならこの六つの分類は、「生まれる前の人」の思いは考えないこととし、「生きている今」と「死後の世界」の二つに分けたのだと理解する方が分りやすいのかも知れない。そして「今生きていること」を「人間道」と名づけ、「死後」を「地獄道」から「修羅道」までの四つと「天上道」の合計五つに分けたということであろうか。

 ただこうして考えてみると、私たちがいわゆる常識的に地獄と考えている世界は、実は四つに分類されることになる。もちろん「地獄、餓鬼、畜生、修羅」の四つについて、私はその意味なり位置づけをきちんと理解しているわけではない。「餓鬼道」に対する私の理解はせいぜいが「飢え」を基本とする世界であり、「畜生道」は「情け容赦なく、いたわりも慈悲もない本能のままに生きるエゴの世界」、そして「修羅道」は「争いの絶えない世界」程度の思いである。そしてしかも、そのこととこの分類の最初に掲げられた「地獄道」とはどんな風に違うのかについてもまるで分かっていないのである。

 「天上道」とは恐らく世界共通の「天国」みたいな世界と似たようなものなのだろうが、そうした世界が恐らく平凡で退屈なものであろうことは、かつてここに書いたことがある(別稿「蜘蛛の糸」参照)。どうして食べることや飲むことに苦労がなく、他者を羨んで努力や競争をするようなことなどない世界、つまり争いや不幸が一つもなくただそよ風の中をゆったりと散歩しているだけのようなぬるま湯三昧の世界を、「天国」と考えたのかは理解に苦しむ。退屈の継続を天国と並列させるくらいに贅沢なことだ考え、そうした環境を人は理想郷と考えたのだろうか。それとも天上もまた退屈の続く「耐え難く不幸な世界」だとして、地獄の一形態に含めて考えたのだろうか。

 天国に対する思いの違いはともかくとして、ここに出てくる地獄の多様さはどうだろう。単に苦しむとか争いが絶えないというだけの世界ではなく、どうしてその苦しみを四つにも分けてしまったのだろうか。地獄をきちん理解していない者がこんな思いを抱くのは不遜かも知れないけれど、人の味わう不幸や嘘や争いなどを、それぞれにあたかも一種の魅力ある存在というか異なった別々の苦しみとして理解したのだろうか。つまり、人の不幸はそれほどまでにそれぞれ重く多様で、決して「地獄」と言うような一言の中に統合してしまえるようなものではないと考えたのだろうか。

 ところでもう一つ、六道を「生きものの終わりなき循環」、つまり途切れることなき輪廻を意味していると考えることもできる。始まりとなる頭もなく終わりとする尻尾もない状態、自らの尻尾に食らいついたウロボロスの蛇のように、ぐるぐると循環のみを繰り返す「死なない命」、「死ねない命」の不幸を示したものなのだろうか。だとするなら、人として生きていることは無限に繰り返す「命」の循環の中の「人間道」にいるときだけを示すのであり、その世界もまた地獄の連鎖の中にあるのだとするなら、「生きていること」とは何を意味しているのだろうか。

 六道をウロボロスに喩えてしまうと、命に「生まれる前」という考えがそもそも存在しないことは分ってくる。そしてそれと同様に命の終わりである「死後」という発想も生まれてこないことになるだろう。「命」はただ循環するだけなのだとするなら、それはそれで承認してもいい。ただそういう風に解釈してしまうと、果てなく循環する命の中に、幸せとか安らぎなどといった平和で満ち足りた時間はないことになる。六道はいつまでも続く不幸の繰り返しになってしまい、そこに「救い」みたいなものを求めることは許されないことになる。

 それは人の世を「そうしたものなのだ」と考えた一種の諦めを意味するのだろうか。「救われることのない命」の中に命そのものが放り込まれ、たまに訪れる平穏があったとしても、それはやがて来る不幸の兆しであるとでも考えたのだろうか。そして「終わらない命」と「救いのない命」を結びつけることで、そのことをどんな風に考えようとも一つの「生きていくことの答」なのだと教えているのだろうか。


                                     2014.12.28    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ
 
 
 
六道への迷い