先週は人が他者を理解することの不可能さについて書いた(別稿「他者との距離」参照)。我が子と我が子以外の違いという差異が、基本的に生物として当然のこととして理解しながらも、どこかあらぬ方へと変化しながら拡散していっているのではないか、との違和感がしてきてならなかったからである。

 こうした違いは区別・差別という形で我々の生活の中に抜けがたく浸透していき、もしかしたら私たちが常識として考えている他者との違いという思いを超えて修復不可能なまでに変化してしまっているのではないだろうか。それは現代の様々があまりにも「対立」という構図を多くの場面であからさまに表してきているように思えるからである。

 差別が対立へと移行する過程を私は必ずしも理解できているわけではない。ただ、時代の推移が差別される側の抵抗する力を強くさせているのか、それとも「差別される」という状態や意識が直接的な利害関係を持たない第三者にも理解されるようになり、様々な形で支援しやすいような時代に変化してきているからなのだろうか。

 そもそも「自」と「他」を区別することは、人であれ動植物であれ生存していくという基本にかかわるテーマであることは否定のしようがない。「他」の死は「自」の死とはまったく異なるのであり、同時に「自」の死が「他」の死とは根本的に違うことを私たちは生まれながらに知っているからである。そして私たちは生物の基本としてそのことの上に、更に「個として生き延びよ」という指令が種としての「生きること」そのものの中に組み込まれていることも知っている。

 人の場合、そうした生き延びることへの指令の内容は個々人の時代背景や生活環境、更には人種・信条などによって異なるだろうことは否めない。

 「人類皆兄弟」みたいな言葉がある。また「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」と言う言葉も広く知られている。「神の下では人類は皆平等である」みたいな話を聞いたこともある。だが、そんな言葉が現実的にはまやかしにしか過ぎないことは、世の中の誰もが知り過ぎているほど知っている。
 もちろん、「そうありたい」と願う意識が総合されたものだろうとの気持ちが分らないではない。仮に事実として四民平等みたいな社会が実現したとして、果たしてそれが本当に「そうありたい」と願うほどにも理想的な世界になるのかどうかはともかくとして、虐げられた側の思いからするならそうした生活から少しでも抜け出したいと願う切実さまでをも否定することはできないだろう。

 だが現実の貧富の差は餓死とハレムの宴会ほどにも拡大し、権力もまた対立者を死に追いやるほどにも際立とうとしている。平等とは何かと問われても私に答えを出せそうにないが、「平等でない」ことの違いは極論を言うなら「ゼロから無限大」にまで広がろうとしている。

 そしてそうした差は時に「努力の成果」、「勤労の美徳」、「才能や教育の違い」、「生まれや身分の違い」などからくる当然の違いとして無視され、いつしか私たちはそうした諦めにも似た思い中にどっぷりと浸かって何も感じなくなってしまう。

 他者を己と違う存在として理解することは、多くの生物が「個」として生まれてくることの必然だと思う。むしろ違いを認識するところから「個」としての自我が芽生えていくのかも知れないとすら思っている。そして時にその違いは事実として承認しなければならないことだってあるだろう。犬猫に「個」としての認識がどこまであるのか私には分らない。それでも痛みや危険から逃げることや、子育てとして少なくとも自分とわが子との違いを認識していることからするなら、まったく「個」としての認識を否定することはできないだろう。

 そうした違いを私たち人間は、無制限にそして無制約に増殖させてきた。歯止めをかけることなく、承認してきた。そして人はある時から、その違いを違いとして承認するのではなく、弱い者を無視し抹消し、存在しないものとして否定する方向へと進むようになってきた。

 そこでは「対等」とか「平等」という考えは片鱗すらない。それは「命の差別」へとつながっていく。「人でない」とまでは思わないのかも知れないが、少なくとも「我々の命」とは「別異の命」であり、軽視しても無視しても、時に否定してもいい「命」になってしまうのである。

 そんな事例が世界中に蔓延し始めてきている。「可哀想な命」と理解することは、理解する側の身勝手な命への思いとなり、「否定してもいい命」への思いは抹消し抹殺しても許される命への思いへとつながっていく。
 差別や区別への承認の行き着く先は、命の軽視、命の無視、命への無関心へと知らず知らずのうちにつながっていくのである。たとえマンデラがどんなに理想に燃え、信念に従い、生涯を通じた戦いの結果、アパルトヘイトの壊滅を確信できる時代が来たと世界中が信じたとしても、アフリカの現在は再び同じような差別の渦中に戻りつつある。あたかも差別・区別は人間自身が「生きていること」と同じように消えていくことはない。


                                     2014.5.14    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



差別・区別の行き着く先