もうだいぶ前の話になるが、女子高校生がクラスメイトの女生徒を自宅で殺害した事件があった。しかも単に殺しただけでなく、体の何箇所かを切断するようないわゆる猟奇的な事件でもあった。そして、こうした事件にはつきもののように精神科医や心理学者がテレビに登場し、ああでもないこうでもないと知ったかぶりの解説を披露するのもまたいつものことである。

 こうした報道に果たして何の意味があるのかは、常々疑問に思っていた。言うことは大体決まっている。なぜ加害女子高生がこのような犯行にいたったのかのもっともらしい推測と加害者に対する人権の配慮を要求することなどが中心である。マスコミもまた加害者の過去を執拗に追いかけ、犯行に関係がありそうだと自らが想像する小学校時代の作文や文集、事件が起きるべくして起きたかのように証言する幼い頃の友人の談話などを登場させる。

 そうした中にこの事件でも、加害女生徒が過去に学校給食に漂白剤を入れたことがある、父親をバットで殴ったことがある、猫を殺して解剖したことがあるなどを、ことさら今回の犯行と関連があるかように取り上げ、彼女の起こした事件の猟奇性を一層高める要素としてマスコミを賑わした。そして事件の予兆があったのだから、相談を受けていた警察や精神科医や両親や児童相談所などの大人集団が、加害少女の心の闇に気がついてさえいればこの事件は防げたのではないかとの思いへと集約していく。そしてそれはそのまま加害少女を取り囲む大人集団の責任を追求する批判でもある。

 そのことは分る。犯行の予兆があったのだから事前になんらかの対策を講じておけば事件は未然に防げたはずだ、との思いは分らないではない。でもそのことがどんなに説得力のある意見だとしても、起きてしまった事件に対しては結果論である。これから起きるかも知れない様々に対して、一つの想定としての効果はあるかも知れないが、起きてしまった事件に対しては何の効果もない。
 だからそのことが無駄だといいたいのではない。ただ、そうした想定することへの余りにも過大な要求が、逆に世の中の仕組みをギクシャクさせているのではないかと思ったのである。

 殺された少女は加害少女の友人だったと言う。との程度親しい友人だったのか、その辺は知らない。ただ誘われて加害少女の住むマンションへと遊びに行き、そこで殺害されたことは報道で分った。加害少女は一風変わった存在として周りから思われていたらしいから、殺された同級生はきっと親切で優しくおとなしい友人だったのだろう。そこのところに私はこの殺された少女に油断があったのではないかと少し疑問が残るのである。

 善意は時としてマイナスに作用することがあることを、人は理解していいのではないだろうか。加害少女が「一風変わった存在」であることは、少なくとも彼女の周囲では多くの人の理解していたことである。それなら、被害少女もそのことを知っていたはずである。

 それを知りつつその相手と友人であったということは、被害少女の善意であり、友情であり、優しさだったことだろう。そうした事実はきっと誰もが賞賛する行為であり、友人であったことを責める者などいないだろう。でも、その友人であることが原因で彼女は自宅へ誘われ、そして殺害されたのである。

 加害少女は警察に「人を殺してみたかった」と話し、親や精神科医などにも何度か同じような気持ちを漏らしていたという。そうした気持ちを被害少女が知っていたとは思えないけれど、「一風変わった存在」という雰囲気の中には、そこまで切迫した異状でなくとも少なくとも臭うものはあったように思うのである。

 だからこそ、加害少女には親しい友人や知人などがいなかったのだろうし、親も我が子にマンションを買い与え、隔離という形で一人住まいをさせていたのだろう。

 社会には様々な災厄がある。自然災害のみならず犯罪や事故など、とても個人の力では対処できないような災厄に満ち満ちている。そうした様々に対して、全てを自力で対処していくことは不可能に近い。交差点で赤信号で止まっていたところへ、信号無視の車が突入してくることだってあるだろうし、集中豪雨で裏山の崖が崩れてきて生き埋めになることだってあるだろう。錯覚や誤解で事故や犯罪に巻き込まれる場合もあれば、「誰でも良かった」とうそぶく見知らぬ者から殺される場合だってあるだろう。

 そんなことを考えたら可能性は無数にあり、それぞれに対処する方法は無限というか、無理というか、現実的には不可能といってもいい。対処方法など、個人レベルでは考えつかないといってもいいかも知れない。だから、政治や行政が、ある種の可能性の程度を考慮して対策というか予防策を準備しておくことも一つの選択肢としてはあるだろう。それでも万全とはいえない。想定される思いから外れてしまうだろうことどもは、余りにも多いと思えるからである。

 そうした中でたった一つ、個人としてできることがある。誰にでもできることがある。それは、呪文である。一言で済む呪文である。これを唱えることで、人は多くの災厄から逃れることができ、また事実逃れてきたのである。その呪文とは何か。簡単な一言である。「君子危うきに近寄らず」である。たったこれだけである。

 この言葉は中国の四書五経の一つ「春秋」にある、「君子不近刑人」(君子、刑人に近づかず)から来ているらしいが、君子とは特別な聖人君子ではなく当たり前の人を指すらしい。つまり俗人に対して「危うきに近寄らず」と諭しているわけである。つまり安全のためには危険に近づかないのが一番・・・、という意味である。そしてそれは「危険そのものに近づくな」ではなく、「危険の恐れのあるところには・・・」の意味である。

 だからその「危険」は「危険であることの確信や確証が得られなくても・・・」の意味である。だとするならそれは危険でなかった場合もあることを意味する。つまり、その危険であるとの判断が間違っていた場合、誤解に基づく危険の判断だったという場合もあるということである。

 これを裏返しに考えるなら、危険でないのに危険と判断して近づかないのだから、その危険でない側の思いからするならいわれなき差別を受けたことになる可能性さえある。これは場合によってはとんでもない理不尽である。思い込みによる差別なのだから、場合によっては誤解に基づく「冤罪」のような作用さえ持っている。


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                                     2014.8.20    佐々木利夫


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差別は偏見か?(上)