「思い込みによる差別は冤罪のようなものだ」と前稿(別稿「差別は偏見か?(上)」参照)で書いた。しかも根拠もなしに差別するなどは、とんでもないことであるとも書いた。それは差別される側の人格をおとしめる行為だと言われても仕方がないだろうと思うからである。だから差別が許されないにもかかわらず差別することは、差別される側にとってはまさに不当な扱いである。

 でも私はそうした立場を擁護すべき場面が世の中にはたくさんあるのではないかと真剣に思っているのである。差別を是認したいと思っているわけではない。差別することを正当化しようと思っているわけでもない。でも「差別が時に己を守る最後の砦になる場合があること」を、多くの人に認めて欲しいと思っているのである。

 「間違った差別はいけない。正しく理解し、正しく恐がる」ことはきっと正しいのだろう。何が正しく何が間違っているかをきちんと検証し、その判断に基づいて己の意思や行動を決定すべきことは正論だと思う。そうした検証がどんな場合にも可能なら、差別することは私たちの行動の選択としては間違いになるだろう。

 だがその検証があらゆる場合に可能かどうかは、とても疑問である。むしろ検証できることの方がとっても難しいのではないだろうか。正邪を見極めて対処することは必要だし望ましいことではある。だが降りかかってくる無数の危険のそれぞれに対して、的確に事実を見極め正邪を検証するなどとても私たちの力の及ぶところではないと思うのである。むしろ無理だと思うのである。

 無理であるにもかかわらず、現実の危険は我々に容赦なく迫ってくる。ならばどうする。判断がつかないのだから、その危険を従容として受け入れることも選択肢としては可能である。だがそうした選択は、少なくとも私にしてみればとてつもなく理不尽な行為である。私はそれほどお人好しではない。そうした時に私が選ぶ唯一の手段は、「君子危うきに近寄らず」ではないかと思うのである。

 もちろんこれに反対の諺もある。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」とも人は言う。危険を恐れているだけでは、成功などおぼつかないの意味である。だが虎子がどんな場合にも財産や成功や名誉などを意味するとは限らない。虎穴にそうした宝物が隠れている場合があるかも知れないけれど、洞窟の奥深くには反対に病気や災害や事故などの危険な要素の方が幾倍も多く含まれていると思うからである。たとえ正邪を確認できなくとも、虎穴に潜んでいるかも知れない未知の危険は避けなければならない場合の方が多いと思うのである。ましてや「危険かも知れない」ことの確率が高く、どこからも安全であることの確実な情報が得られないような場合には、検証なしでも回避することは人としての義務なのではないかとすら思っているのである。

 そしてこの「君子危うきに近寄らず」の対処法はあらゆる危険に当てはまり、しかも検証のための時間や費用もかからず、危険回避の効果だけが即座に期待できるのである。もちろん「近寄らない」ことを選択された側からするなら、それは理不尽である。でも他者と自己との対立の中で、危険を避けて我が身や我が子の安全を守り、時として生残りを賭ける場面に直面する可能性があるなら、そうした選択は自己責任としての義務であり、生存権にすら当たるのではないだろうか。

 善意は時としてマイナスに作用する場合があると前稿で述べた。「人類は友達、皆仲良く」は言葉としては甘い香りと正義の衣をまとってはいるけれど、その内側には悪意もまた取り込まれている場合があるのではないだろうか。世の中がすべて性善説で構成されているとは限らない。性善か性悪かの判断をあらゆる場面に応じて即座に、しかも的確に判定することなどできないように人は作られているのである。

 前稿で殺された女子高生とその彼女を殺したクラスメイトの女生徒について書いた。殺された彼女を責めるのは、世間の常識とは異なるかも知れないけれど、私には殺された彼女にも「君子危うきに近寄らず」の意味を、もう少しきちんと理解して欲しかったと思うのである。
 その理解とははまさに「友達を信じるな」を意味するのかも知れないけれど、友達を疑ってみるというそれしきの想像力すら持てなかったことは、責められてもいいのではないかと思っているのである。

 土砂崩れの危険のある地域には住宅を建てない、伝染病でないと確実に証明されるまで病人には近づかない、行動の予測ができないような障害者には近づかない、絶対安全の保証が得られるまでは原子力発電所は作らないなどなど、世の中は近づかないことで避けられる危険が山のようにあるのである。もちろん近づかないことに伴う、それなりのデメリットはあるだろう。危険であることから得られたかも知れない甘い蜜を、味わい損ねることだってあるだろう。

 それでもなお私は、危険から遠ざかるという判断と行為の中に、人は自らの生存のみならず種としての存続までをも託していたのではないかと思うのである。

 死亡率が50%以上とも言われ、有効な治療策もないとされているエボラ出血熱がアフリカの南部で発生し拡大している(20014.9.4のネット情報によれば、死者2000人とも言われている)。とにかく患者を隔離し接触を断つ以外に拡大を防ぐ方法はないとも言われている。
 それでも死者に触れることで別れを惜しむその地域の葬送の習慣であるとか、治療に当たる医師や看護師が患者と接触するなどを通じて感染は拡大の一途をたどっている。それも発生地たるアフリカ南部に限らず、フランス、アメリカへも飛び火しているとの報道もある。

 日本にも海外旅行はともかく、これまで国内単独では発生したことがない言われているデング熱が発生し、患者数は12都道府県59人にも及んでいる(2014.9.4、NHKニュース)。東京の代々木公園付近の蚊が媒介の原因らしいが、公園は閉鎖されてしまった。蚊による伝染以外に感染拡大は起こらないと言われているが、治療法はまだ確立していないらしい。

 エボラ、デング、サーズなどなど、そうした伝染病の拡大に最も有効な手段が、「感染地域に行かないこと」、「感染地域から逃げ出すこと」であることが、当たり前のことのように国民の間に広まってきている。もし保菌者や潜伏期間中の患者が感染地域から外へ出るようなことがあれば、大問題であることは分る。だから有効な治療方法が見当たらない現状において、まさに「君子危うきに近寄らず」の対処法こそがエボラに対する有効な手段だとして、外務省もWHO(国際保健機関)も認めざるを得ない現状にある。

 「患者にさわるな・触れるな」の指示は、仮にその患者が死んだときにはその国の長い伝統に基づく「死者に触れて見送る」という尊厳ある葬送の儀式を否定する意味を持つ。それは場合によっては死者に対する冒涜であり、差別であると解される余地さえある。しかももし仮に、その死者がエボラ出血熱の患者でなかったとしたなら、「触れるな」との命令は、死者へのとんでもない非礼の強制になるかも知れない。それでもなお私は、そのことを知りつつも確かな情報のないままに差別することに対し、我が身を守り、我が身が第二の感染源となって家族や友人に被害が及ばないようにするための必要な行動だと思うのである。

 だから私は、絶対安全が確認・納得できるまでの間、「君子危うきに近寄らず」に徹することこそが私たちに与えられた、唯一有効な選択だと思っているのである。そしてそれが仮に被差別者に言われなき苦痛を与える場合があるとしても、それでもなお正しい選択だと信じたいのである。

 決して被差別者に苦痛の受容を強要する意図でも、差別そのものを目的としたわけでもない。ましてや差別を楽しんだりしているわけでもない。あくまでも「自分を助ける」ための反射的効果が、時として差別を生んでしまう場合のあることを理解して欲しいのである。


                                     2014.9.4    佐々木利夫


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差別は偏見か?(下)