国は放射性廃棄物が人体に影響を与える期間を数万年と言うけれど、放射能発見からたかだか100年足らずの研究でそんな先までの影響を確かめたデータなどないように思うし(前稿「数万年という時間(上)参照)、また検証することなど不可能ではないかと思う。しかしその反論は私にもできないことなので、とりあえず「人体への影響は数万年で消える」という政府の発表を前提として話を続けよう。

 私たちは時間というのを、どうしても現在を基準に、今の私たちがこれから生きていく時代を中心に考えがちである。そして今のような能力のまま、技術は更に進化し、様々な記録は書物や電子媒体などて永久に保存できるみたいな発想で考えがちである。

 でもそれが50年先、100年先ならともかく数万年という単位で考えるなら、そうした考えは途方もなく無茶であるよう思えてならない。現にレコードやカセットテープなどは、僅か数十年で使えなくなり本来の機能を失ってしまっているではないか。
 政府は放射性廃棄物を地中深く埋め、人体に影響がないように管理するという。具体的な管理方法は分らないけれど、万が一にもテロ集団などによって占拠される恐れがないようにするため、恐らくは埋蔵場所は秘匿されるだろう。そしてどんな形かはともかく、立ち入り禁止区域を設け管理する組織を定め、管理人を配置して誰もその場所へ近づくことができないようにするだろう。更には埋蔵場所の入口には「立ち入り禁止」の立て札をたて、保管容器や保管場所の扉には文字なりマークで「危険な放射能がここにあること」の表示をするかも知れない。

 このような管理体制をとることで、いかにもその場所はいつまでも安全が保たれるかのように思える。でも考えても欲しい。管理期間は数万年である。そんなにも長い期間、私たちは「今の私たちが抱いている思い」をそのまま維持することができているだろうか。私たちは今考えている政治形態や正義や安全に関するもろもろの思いや習慣が、そのまま数万年も続いていくと信じていいのだろうか。

 私は外国語が苦手で、英語はおろか何一つ理解できない。だから例えば100年前の英語が現代の英語圏の若者にそのまま通じるのかどうか、まるで分らない。でも日本語なら少しは分るつもりでいる。私が標準的な日本人である保証はないけれど、70数歳の私にしてすでに、森鴎外や夏目漱石の小説が古典になったとまでは言わないまでも、きちんと読めて理解できるとは言えないような気がしている。ましてや、福沢諭吉や明治時代の文書などは、極めて理解が難しくなっているように思える。理解というよりは、それはそもそも「読むことそのものが難しくなっている」と言っていいのかも知れない。更に言うなら1000年前に書かれた源氏物語の原文などはとても読めたものではないのである。それは現代の活字として印刷された文字であっても意味が通じないのであって、写本として残されている手書きの草紙などにいたっては文字そのものが判読不可能なのである。

 つまり1000年を経て紫式部の残した文字は、当時の流行の小説であり誰にも読めたはずの文体でありながら、少なくとも私には伝わらなくなっているのである。読める学者がいることは分かる。そして私が読めないのは私の努力不足によるところが多いことを否定するつもりもない。それでも1000年で紫式部の原文は、多くの人(ほとんどの人と言ってもいいかも知れない)に伝わらなくなっているのである。恐らく当時の「話し言葉としての日本語」だって、伝わらなくなっているのではないだろうか。僅か1000年で私たちは、紫式部と会話はおろか意思疎通すらできなくなっているのである。

 こうした事実を考えるとそれは単純な「日本語の変化」ではなく、日本語が「異言語」へと変わっていったのではないかとすら思えてくる。つまり私が言いたいのは「立ち入り禁止」や「放射能危険」の文字やマークが、果たしてその意図どおりに数万年後の人たちに正確に伝わっていくのだろうかということである。

 言葉は時間で変化していく。それを否定はしないが、数年の変化は外来語や専門用語の混入だとか若者言葉の侵入などの批判程度で済むけれど、数十年で古典化、数百年で少し読めるけれど理解不能、数千年で異言語化してしまうほどなのである。

 ほんの少し考えてみると、「バラ線を張って立ち入り禁止とし、その周りを人が管理する」というシステム自体だって、どこまで維持できるのかとても疑問である。5年、10年いやいや数十年というのではない。なんと数万年というとてつもない期間を通じて、私たちは「管理」というシステムを果たしてきちんと機能させることができるだろうかということである。そのためには、恐らく今の我々が理解しているような政府とか自治体と言った組織が、数万年後もそのまま継続して機能していることが求められるだろう。果たしてそんなことが可能なのだろうか。

 私の稚拙な知識だが、ロゼッタストーンと呼ばれる文字を刻んだ石版の欠けらの発見がある。発見されたのは1799年とされているが、解読されたのは1822年だと言われているから小数の専門家による必死の努力にも関わらず、内容の理解には数十年の歳月が必要だったということである。紀元前200年から300年頃のエジプトでの記録だそうだが、発見された当時は誰にも読めなかったのである。たかだか2千数百年を経ただけで、後世の人たちにその言葉はまるで伝わらなくなっていたのである。立ち入り禁止の立て札や保管してある部屋の壁や容器の表面に「入るな、開けるな、放射能危険」などと書いてあったとしても、果たして数万年後の人たちに、その意味が伝わるだろうか。

 つい先日のNHKeテレのTEDという番組で、アメリカでの著名人の講演を紹介していた(20014.2.3、22:00放映)。エジプトのナイル川のほとり、およそ4000年前に400年間ほど栄えた「イチタウイ」と呼ばれる街の遺跡を、宇宙からのいわゆる航空写真を使って場所を特定し発掘しようとする女性考古学者の話であった。まだこの街は発見されていないが、すぐ横を流れていたナイル川が移動して、その都を地中に沈めてしまったのだそうである。僅か4000年で一つの都市が消えてしまい、現代の誰の目にも分らなくなっているのである。地中に埋もれて分らなくなったということは、埋もれたものもいずれは地表に出てきて私たちの目に触れることと同義であると私は思う。

 数万年後に人類そのものが生残っているのどうか、私には分らない。でも「生残っている」ことを前提にして物事を進めないことには、放射性廃物の処理の話はできないだろう。
 私は人類が今の言語や習慣などのシステムのまま、数万年もつながっていくとは思えないが、基本的に信じていることがある。それは人類が生残っていたとしたなら、生物の特質として「好奇心」だけは残されているように思えることである。

 1万年か数万年を経て、地下深く埋めたはずの放射性物質を詰めた容器が地表に出てきた。山歩きをしていたあなたはそれを発見した。一緒に「立ち入り禁止」の立て札も出てきたし、なにやら紙かプラスチックか金属かはともかく、文字らしきものを書いた説明書らしきものも一緒に出てきた。もちろん、それが文字かどうかは分らないし、容器の絵らしきものも何を意味するかはもちろん理解できない。さあ、あなたならどうする。目の前にある容器は封印されている。だが封印されているということは中に何か大事なものが入っていることを示唆している。もしかしたら黄金や宝石、いやいやそれ以上のお宝が詰められているかも知れないではないか。きっちり封印されていることは、それだけ中味が貴重品かも知れないことを暗示している。

 現代とは違うだろうが、人が集団で生活しているとしたなら、何らかの組織があるかも知れない。あなたはその容器を開けることなくその組織へ報告するだろうか。それともこっそり自分で開けようとするだろうか。私にはその結果が見えるような気がする。ピラミッドや古墳の盗掘の事実は、人類の起こした紛れもない習性を示していると思うからである。

 それとも、数万年先のことなど今の私たちにはまるで関係がないのだし、我が子や孫の代までの数十年後ならまだしも、そんな未来のことなど知ったことかと思う気持ちも分らなくはない。地球が滅ぼうと人類が絶滅しようとSFの世界などに興味はないし、それよりもとりあえずこれからの毎日、明るくて暖かい部屋で美味しいご飯が食べられるなら、数万年の未来は未来人に任せておけばいいだろうとの思いも理解できる。でも、本当にそれでいいのだろうか。


                                     2014.2.8    佐々木利夫


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