東日本大震災から来月で3年になる。いまだ復興は道半ばであり、見通しさえつかないものさえある。そうした原因の一つに、巨大地震・巨大津波といったまさに想定外の自然災害にあったことを否定しないが、私の理解では原発崩壊に伴う放射能の処理の見通しのなさが最大の原因になっているような気がしている。
放射能についてはこれまでに何度も書いたから、またかと思うかも知れない(別稿「
原発の安全」参照)。それでもなお、政府や専門家の言うことに私が納得できないでいるのは、私の理解力が足りないのかそれとも説得力の不足によるものなのだろうか。
放射能が、直接被曝という火傷のような障害を人体に与えることは誰しもが知っていることだろう。またそれ以外にも、遺伝子への影響で私たちの子孫への影響が避けられない場合があることもまた、多くの人に知られていることである。
もちろん、放射能といえども「程度の問題」であることは知っている。ある種の「許容範囲」というものがあって、その範囲を超えた場合に「安全でない」と理解すべきものであろう。それはどんなものにだって「許容範囲」の考えは存在する。実証的に示せるわけではないが、例えば食塩や砂糖だって一度に何キログラムも口にすれば下痢を起こしたり、場合によっては死にいたることだってあるかも知れない。また青酸カリだって花粉一粒程度の量であれば、たとえ体内に取り込んだとしても何の症状も起こさないだろう。
それは放射能についてだって同様だと思う。私たちは普通に生活しているだけでも、少なくとも障害や影響を心配することなどない程度の放射能を宇宙線という形で受けている。また、毎日の食卓にだって微量ながら放射能を含んだ食事が必ず載っているだろう。考古学である種の「放射性炭素」の含有量を測定することで、化石などの年代測定が可能であるということがそうした事実を物語っているだろうからである。
そうした事実は、私たちの体そのものにも自然に放射能が取り込まれていることを示しており、それはそのまま私たちの体そのものが放射能を発しているのであり、被曝ではなく与える側になっていることをも示している。ただ、その発する程度が、まさに青酸カリの花粉一粒のように無視できるということなのであろう。
私たちが日常受けている程度の自然界に存在する放射能が、遺伝子レベルにもしろ人体にまったく影響しないのか、その辺のことは私には分らない。そうは言っても「自然界に存在する程度の放射能」は、地球に人類が発生する以前から続いているのだから諦めるしかないだろう。仮に遺伝子レベルで影響があるとしても、もしかしたら「人類の発祥や進化」そのものの中に組み込まれている事実なのかも知れず、まさに許容する以外ないだろうからである。
それでも人為的に作られた放射能の影響となると、「仕方がない」で諦められるものではない。もちろんその場合でも、「程度の問題」は依然として成立する。ただ、そうした「程度の問題」を認めつつも、私たちがどの程度まで許容できるのかは依然として大きな問題である。「ここまで」、「ここを過ぎず」という限度がどこにあるのか、その検証がまず問われることだろう。
政府や専門家は一応の基準を示している。ただ私たちがそうした知識を知らされたとしても、その現状は余りにも不確定である。人類が得ている放射能の知識やその影響に対する知識は、余りにも僅かだからである。多くの科学者や専門家が研究していることを否定はしない。恐らく我々の想像する以上の研究をしていることだろう。でも私たち人類が放射能の存在を知ったのは、うろ覚えの不確かな知識ではあるが、恐らくキュリー夫人の研究が初めてではないだろうか。
キュリー夫人はラジウムの研究で1903年、1911年の二度にわたってノーベル物理学賞と化学賞を受けている。だが彼女の死因が再生不良性貧血と言われていることや、「放射線」という語が彼女の発案であったことなどを考えると、「放射線が生物組織に影響を与える」ことはまだ知られていなかったのではないだろうか。ましてや遺伝的な影響などは頭をかすめることもなかったように思える。
つまり放射能が人体に影響を与えることを人類が知ったのは、たかだか100年程度前のことでしかないということである。もちろんこの100年の間に私たちは多くの知識を得たことだろう。それでも僅かに100年間の研究でしかない。淘汰の早い昆虫などを使って今は遺伝の研究もされていることだろうとは思うけれど、放射線が人類の未来にどのような影響を与えるかを解明するには、100年はあまりにも短い時間ではないだろうか。
現在国が考えている、原発で燃やした使用済み核燃料の始末は、まず「再処理工場で処理して、プルトニウムを取り出す。残った廃棄物はガラスと混ぜて固めて地下300メートル以上の深さに埋める」、である。この固体化された廃棄物は、表面温度が200度にもなり、毎時1500シーベルトという強烈な放射線を出すと言われている(2014.1.25、朝日新聞、b4)。これが「青酸カリの粉末が花粉一粒程度」という「程度の問題」でないことは、「使用済み核燃料の保管量が日本全国に1万7千トンにも及んでいる」(同上朝日新聞)ことからも明らかであろう。そしてこの保管の期間が数万年とされていることは(経済産業省 資源エネルギー庁 放射性廃棄物対策室「放射性廃棄物のホームページ」より)、まさに数万年にわたってこの廃棄物は人体に危険な放射線を出し続けることを意味している。
放射線を出す期間は物質により多様である。放射線の持続する期間を表示する目安に半減期と言うのがある。ある固定された物質から出る放射線の量が半分になる期間のことである。ヨウ素は8.04日と短いけれど、セシウム137は30年、ラジウム226は1600年、プルトニウム239は2.4万年、ウラン233は16万年、更にウラン238になると45億年だと言われている(北海道電力のホームページ)。ただこれは期間であって、人体への影響度はまた別である。つまり、もととなる量や放射線の影響する強さなどを知らないまま、単に半分になったと言うそれだけのことで安全であることの証明にはならないからである。
もちろん、半分の半分の更に半分というように、半減期を何度か重ねていくことで放射線の影響は限りなくゼロに近くなっていくことだろう。そしてやがては自然界に存在する程度のレベルにまで低下していくことだろう。しかし、この半減期をどれほど繰り返したら、無視できる程度のレベルにまでに下がるのだろうか。上に書いた半減期の期間から考えると、私にはまさに気の遠くなるような、言い換えるなら無限とも云える長さに思えてならない。
長くなってしまいましたが、まだ書き足りないことがあるので後半に続けたいと思います。
数万年という時間(下)へ続きます
2014.2.5 佐々木利夫
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