ジンバブエという国があることは、名前だけでは知っていた。しかしそこがアフリカかどうかさえ、私の頭には確かではなかった。恐らく内乱か内戦か独立運動かなにかで、紛争国の一つとして新聞に名前が載った、その程度の認識だったのだろう。

 「ゼンゼレへの手紙」(J.ノジポ・マライレ著、三浦彊子 訳、翔泳社)を読んで、この国がアフリカの南に近い国の一つであることを知った。中途半端ながら、南ローデシアと呼ばれた長い植民地時代を経て、1980年にジンバブエ共和国として独立したことも知った。

 それでも私はこの国の現状について、政治がうまく機能しているのか、紛争はきちんと解決したのか、国際的な位置づけはどうなっているのか・・・、そんなことはまるで知らない。ましてや日本との係わりなどについての知識は皆無である。それでもこの本を読んで、著者が自分の国をどう思っているのか、アフリカの女であることの意味は何かなど、多くのことを教えられたような気がした。

 「ゼンゼレ」とはこの小説に出てくる娘の名である。これは小説だから、どこまで事実なのかは分らない。訳者の評によるとこの小説は、「アフリカ南部ジンバブエに暮らす母親シリが、米国ハーバードに留学している娘ゼンゼレに宛てた手紙。その中でシリは、自分のこと、一族のこと、そしてジンバブエ独立の闘いについて語り、アフリカの魂を忘れずに強くなるようにと説く。・・・祖先から受け継ぎ、自らの人生で得た英知を娘に授けようとする母親の深い愛」(表紙とびら)の物語である。

 母は娘にこんな風に言う。

 「・・・ここに記したことは、いまのわたしをつくりあげた物語でもある。こんなことをするのはあなたがわたしの娘であり、自分の知恵を授けるのは年老いた女に許された特権だから。それにわたしがあなたに与えなければならないのはこれだけなのだから」(P7)

 「・・・こういった思い出、わたしたちのささやかな伝統の豊かさは全部あなたのもの。受け入れようが拒絶しようがそれはあなたの勝手だが、あなたの土台をつくったのがこういったものであることはまちがいない」(P10)

 これを読んで私は、果たして私はこうした意味での日本の歴史や伝統、そんなに難しく言わなくたっていいかも知れないが、日本人としての意味や知恵みたいな思いを子供たちに伝えてきただろうかと不安に思ったのである。むしろ、なんにもしてこなかったのではないかと思ってしまったのである。

 この本のテーマは、徹頭徹尾人種差別との戦いである。それは7つの海を支配し、そして植民地として多くの国を支配してきた英国という巨大な力との戦いであり、今でも世界中に蔓延している「人種差別」との戦いでもあった。

 「人の喜びや悲しみまでが人種によって厳密に分離されているような、これほど徹底した体制を想像することができるだろうか?」(P212)

 「あなたが"古老"と呼ぶ村の年寄りたち。彼らは戦いやその勝利や、白人がやってくる前の村の生活の栄光に満ちた叙事詩を延々と詠う。彼らもまた生きた歴史。村はわたしたちの図書館。ケンブリッジの町には二十も図書館があるとあなたは自慢するけれど、チャコワにも無数の図書館があることを思い出してほしい!」(P10)

 私たちにもアイヌ問題や「変な外人」の呼称に代表されるような外国人差別、更には人種差別とは異なるかも知れないけれど部落民や村八分など、人が人を差別する歴史を重く持ってきたし、それは今でも尾を引きずっているようにも思える。でも解消されつつあるとは言いながら世界中に拡散している黒人差別などの歴史や今の姿を見るとき、日本人が意識している人種差別に対する彼我の違いはあまりにも大きい。

 「あなたは自由は当たり前のものだと思っている。けれども50年、・・・いえ20年前でさえ・・・それは夢にも思わない夢だったのよ」(P224〜225)

 自由とはいったいなんなのだろうか。私たちも様々な形で自由を奪われていた時代を経験しいるし、そして自由を獲得してきた歴史を知識としても得ることができる。でもこの言葉の意味での自由を、私たちは本当は知らないのではないだろうか。彼女の言う「当たり前」と「夢」との落差を、私自身もきちんと理解できていないような気がしてならない。

 「母の存在そのものが母の信じる真理の揺るぎない証言だった。夜明けとともに母は床を離れ、お祈りをして、朝日が一日の始まるを告げる前に母の一日ははじまっていた」(P54)

 話は次第に民族とは何か、生まれてきたことの意味は何か、そもそも「わたしがいる」とはどういうことなのか、などへと移って行く。それはそのまま「アフリカの女」であることの意味、ジンバブエが「ここにあること」意味、そこで生まれ育ちそして死んでいく「祖国の中のわたし」の意味を問いかけるものでもある。

 そしてその問いかけは、私自身に対する問いかけでもある。少なくとも私は、こうした問いかけを私の子供にも、知人にも、大衆にも、これまで一度たりともしてこなかったことを、今ここに痛烈に責められているような気にさせられている。それは決してナショナリズムではない。今ここにいる自分が自分であることの、最低限の立ち位置の問題でもあるかのような気がしてくる。

                もう少し続けたいと思います。「ゼンゼレへの手紙2」へ続きます。


                                     2014.3.20    佐々木利夫


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ゼンゼレへの手紙 1