「人は忘れていく」のである。忘れることそのものを「悪だ」と言うかも知れない。忘れることは時に「罪であること」を忘れてしまうことも意味するから、「悪」の側面を持つことを否定はしない。だが「忘れる」ことを批判したところで、「忘れる」という現実がある以上答は見つからないだろう。「忘れる」ことが人間特有の現象なのか、つまりアミーバーや犬猫に「忘れる」という現象がないのかどうか、私には分らない。

 ただ私は、「人は忘れる」ことは人間の本性なのではないかと思っているのである。いいことも悪いことも、人は忘れる。認知症や記憶喪失症などによる「病的な忘れ」もあるだろうけれど、時の流れは普通の人たちにも「忘れる」ことを強要する。たとえ忘れることを批判されようとも、もしかしたら人は経験したことのほとんどを忘れてしまうのではないだろうか。私が単に実感している記憶のヴォリュームだけで人類の記憶の意味を推し量るのは間違いだろうけれど、生まれて70数年、今日まで時間にして65万時間もを私は経験してきた。眠っている時間はともかく、概ねこの三分の二の40数万時間を私は実体験として記憶してきたはずである。だが僅かの断片を残して、そのほとんどを私は忘れてしまっている。

 忘れることが悪だと評価されるなら、私はまさに悪の権化である。忘れてしまっているのだから、その忘れた事象が私にとって、もしくは世の中にとっていいことだったのか、それとも悪いことだったのか、更にはどうでもいいようなことだったのかすらも覚えていない。それでも今朝のこと、昨日のこと、去年のこと、10年前のこと、50年前のこと・・・、それはまさに恐怖と言ってもいいほど私の記憶から失われていっている。

 でも一方で、人は忘れることによって新しく記憶できるのだとも思う。もし仮に「決して忘れない能力」を人が保有していたとしたら、恐らく私たちは当たり前の生活すらも続けていくことができず、場合によっては発狂すらしてしまうのではないだろうか。忘れることは溢れるような記憶の混乱から人を救い、したたかに生き続けていけることの必須の仕組みになっているのかも知れない。

 人は経験したことも、学んだことも、時とともに忘却の彼方へと追いやる仕組みを獲得した。そしてやがて記憶ゼロの世界へと自らを追い込むシステムを種として選択したのである。それはそのまま記憶が風化することへのプロセスを辿るものである。風化が進んでいくことは、人が生きていることの必然である。だから風化していくことは、人が新しい歴史に向かって挑戦することの大切なエネルギー源を生み出すことであり、また必要なシステムでもあったのである。

 私たちが「風化すること」に歯止めをかけようと意識するのは、「対象とされる現象」を体験した人たちの身勝手な思いにあるような気がする。自らの経験した事象を、どうにかして経験しない世代に伝えたい、残したい、忘れてもらいたくないという思いだけが痛切にあるのではないだろうか。だがそれは自らの利益や保身や理想と思い込む記憶などへの身勝手な思いである。人の種としての生存に、異を唱えるものである。進化の過程を、自ら否定するものだと思う。

 記憶は風化するのである。風化するように人は進化してきたのである。だからこそ人は未来へと生き続けていけるのである。私たちは言葉や文字や映像を使って記憶を後世に残す術を開発した。だがそれとても、やがて風化の波に巻き込まれてしまうのである。

 風化を嘆く声はいたるところから聞こえてくる。4年数ヶ月前の福島原発事故についても、30年前に御巣鷹山で起きた日航機墜落事件についても同様である。今朝のテレビでは、青森県の交通事故で子ども亡くした遺族が、「私が死んだら誰もこの子のことを覚えていなくなる。風化してしまう」と嘆き、事故のあった道路に慰霊碑を建てたという話をしていた。恐らくその慰霊碑とても、やがて人々の記憶から消えてしまうときがくるだろう。

 世界平和を願う思いが風化を嘆く原動力なっていると人は言うかも知れない。だか最早私にも、日清戦争、日露戦争の開戦の日付はおろか開戦の年さえ記憶にない。明治維新、戊辰戦争、関が原の戦い、元寇、大化の改新などなど、恐らく戦いに巻き込まれた多くの人々はそうした記憶が風化していくことを嘆いたことだろうが、私の中では歴史的な事件、それも単に「教科書の記述」程度のあいまいな記憶でしかなくなっている。

 歴史は恐らく一つの例外もなしに、風化を繰り返してきたのである。そしてこれからも繰り返すのである。第二次大戦の開戦や終戦、そして原爆投下などの日付を記憶していない人が増えていることを嘆くようなのは、風化することの意味をきちんと理解していない人の、独りよがりな思いであると私は思っている。風化は人が人として生きぬくために獲得した、とても貴重な知恵なのである。


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                                     2015.8.15    佐々木利夫


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原爆の風化(2)