生きているからこそ(1)からの続きです。

 前項では捕虜になったヨルダン人パイロットの立場について、片方から見るならかわいいわが子であり国を支える優秀で尊敬される兵士かも知れないけれど、もう一方から見るなら身内や友人を爆撃し領土を破壊した殺人者であるとの思いを書いた。

 そうした思いを抱いた背景は、片方の立場だけに立って物事を判断するのがとても危険なことではないかと思ったからである。確かにパイロットは殺戮され、それも残忍な方法で殺害されたとの映像がネットで配信されたとも聞いた。そうした死に対する批判は、パイロットが殺されたことにあるのだろうか、それとも殺害方法が残酷だったことにあるのだろうか。

 どんなことがあろうと、「人が人を殺す」ことは理屈以前の絶対的な悪であるというなら、それはそれで認めてもいい。誰もが納得できるような司法を関与させようと、法律で定めようと、どんな手段であっても「人を殺すこと」そのものが認められないとする絶対的な認識が世界中で承認されているなら、パイロットが殺されたことを非難しその実行者を弾劾することを認めてもいいだろう。

 それは「理屈抜き」で「人を殺すことは認めない」とする立場からくる当然の帰結だからである。それがたとえ一国の国民全部の抹殺したことに対する処刑であろうと、世界中の人間の抹殺を図ろうとしたことに対する報復であろうとも、「決して殺人は許されない」とする立場からするなら当然のことであろう。

 ただそうした考えは死刑というものが、犯罪とは完全に分断されていることを意味している。「死刑そのものが絶対悪」として確立しているということである。だから「報復としての死刑」だって、理屈抜きに認められないことになってしまう。まさにこれは理屈ではないのである。どんな理由があろうとも「死刑そのもの」があってはならないことだからである。

 だが世界がそんな現状にないことは誰もが知っていることである。現にパイロットがテロ組織に殺されたことに関しヨルダン国は、「イスラム国」のテロ実行犯であるとして死刑宣告した囚人を「報復である」との名目の下で死刑の執行をしたからである。つまり、刑罰として死刑を宣告し、その執行を「報復」として行ったのである。

 人がどこまで公平になれるかは難しいテーマである。学校でのイジメをはじめ、身体や精神の障害者に対する偏見や前科者に対する先入観などなど、人は時として他者に対して言われなき差別感を抱くことがある。
 だがそうした偏見や差別感を公平な立場で評価するよう努めるのが、メディアや政治の役割なのではないだろうか。そうした立場を踏み越えて、個人の思惑の集合みたいな感情にメディアや国が流されてしまうことがあってはならないことを、私たちは長い歴史を通じて何度も学んできたのではないだろうか。

 パイロットの処刑が公表されると同時に、メディアも主要な国の首相なども、こぞって「イスラム国」への批判の声明を発した。そしてそうした声に呼応するかように、ヨルダンは死刑囚の死刑の執行を発表したのである。その死刑は「パイロットの処刑に対する報復である」とヨルダン政府自身が認めているのだから、当然のことなのかも知れない。

 だが私にはヨルダン政府の立場が、国民の報復感情に対する迎合のように思えてならなかった。パイロットが「イスラム国」爆撃に参加した兵士、つまり「イスラム国」にとっては敵であったことに対する、何の説明もされていなかったからである。ただただ、「ヨルダン人パイロットがイスラム国に処刑された」そのことと、それに対する「報復の処刑である」ことのみが発表されたからである。

 そしてアメリカもイギリスもドイツはもちろん日本のメディアも、そうした「報復の矛盾」に少しも触れようとはしない。もちろん「報復の連鎖」を危惧する報道はあった。だが、「パイロットの処刑」と「報復として行った死刑囚の死刑」とがどの点でどう違うのかに対する何の説明もなされていないことに、私は一方的に「イスラム国」を非難することの納得ができなかったのである。

 「相手がテロ集団なのだからどんな行為も全て悪である」とする考え方にも、一理あるかも知れない。しかしそれでは、例えば人種差別、例えば宗教差別、例えば前科者や貧乏人に対する偏見などとなんら変るところはないのではないだろうか。そうした偏見が私たちの中にないとは言えない。ロシア人だからとか、それはアメリカ人特有の考えだとか、あいつはイエスマンだから、男だから、女だから、上司だから、先輩だから、部下だから、いつも愚図だから、泣き虫だから、優柔不断だから・・・。人は時にどうしてもグループやその人の全人格などを一律のものとして判断しがちである。

 そうした思いはそれなりに、人が自己防衛をするために学んできた本能的な手段であり、恐らくそうしたことによって人は事実として生き延びてこられたのかも知れない。

 私はこれまで何度も、「君子危うきに近寄らず」の考えこそが人が生き延びていくための基本的な習性として遺伝子の中に組み込まれているのではないかとの考えを提言してきた。その私がこんなことを言うのは、こうした考えからは少し外れてしまうかも知れない。ただそうした一種の予断や偏見による過ちを犯さないために、私たちはメディアであるとか国とか政治などによる公平で中立な判断を確立させるよう組み立ててきたのではないだろうか。

 人が一方のみを向いて行動することの幣がどんな禍根を残してきたかを、私たちはこれまでの歴史の中から嫌というほど学んできたと思う。だから集団が一方しか見ていないこと、他者をレッテルだけで判断してしまうことの恐ろしさを私たち自身に知らせるのも、メディアの重要な使命なのではないだろうか。

 為政者は時として自分のほうだけを見せようとする。そして時にそれはポピュリズムと呼ばれることすらある。私たちが「逆櫓を漕ぐ」ことを認め、多数決には反対意見を十分に聞くことの前提があることの下で承認したのは、一方を向いてしまうことの弊害を理解したからだろう。誰の言葉だっただろうか「私はあなたの意見に反対である。だが、あなたがその意見を述べる機会を、私は命がけで守る」と言ったような考えを尊重するのは、片方だけの意見に流されることの恐ろしさを知っているからである。

 テロの意見に賛成せよと言うのではない。でもしかし、「テロの意見は全て悪である」と無批判に断じてしまうことの弊もまた、私たちは自覚していなければならないのではないだろうか。


                                     2015.2.13    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ
 
 
 
生きているからこそ(2)