「AはBである」と結論付けるとき、その根拠として例えば「私は男である」とか「明日は水曜日である」などのように、公知の事実(誰の目にも明らかな証拠不要の事実)を根拠とすることは可能である。だがこうした呈示以外のすべてについて、その命題の根拠として公知の事実を挙げることができない場合、「だからその命題は誤りである」とすることはできないだろう。なぜなら、そうした証拠呈示の手法を全面的に否定してしまったら、数学的な意味で100%でない根拠のすべては採用できないことになってしまうからである。

 だが私たちが生活している現実社会での思いは、対立者の双方の主張について、それぞれある程度の許容した態度で接すべきだということで成立している。そのことは時に「A=B」とする主張にも、「AはBでない」とする主張にもそれぞれ耳を傾けるべきではないかとの感覚を意味する。そうした背景を分りつつ、それでもなお一方の意見について「それは違うんじゃないか」と思うことがある。だからこれから書こうとすることは、単なる私の思い付きに過ぎないのであって、なんら聞く耳を持たない主張だといわれてしまったならそれまでのことである。

 人があることを主張するということは、そうした対立する批判なり反論を予定していると考えてもいいだろう。同時にそのことは反論の極めて少ない主張に対しても当然適用されるだろうけれど、対立している意見の場合についても同様であろう。

 それでも私は、ある人の意見に反論したいのである。ある本を読んで、その人の主張がどうしても理解できず、単なる独断であり偏見にしか過ぎないのではないかと思ってしまったからである。

 それは「父という病」(岡田尊司、ポプラ社、2014年発行)を読み進めているうちに湧いてきた思いであった。読んでいていらいらしてきだしたのである。そんなにいらいらするのなら、その本に対するチャレンジを中途で放棄すればいいではないかと思うかも知れない。どうせ図書館から借りた2週間期限の本なのだから、そうしたところで著者にも出版社にも迷惑がかかるわけではなし、私自身も「読まなかった」ことに気持ちを切り替えることで一件落着にしてしまえるように思えるからである。

 それでもなお私は、いったん感じてしまったいらいらを、そのままつぶしてしまうことができなかったのである。それは余りにも仮定を積み重ねることで物事なり主張を正当化しようとしているように思えたからである。仮定はあくまでも「ある人の思い」である。いくら重ねても事実を証明する手段にはなりえない。

 そうした書き方は冒頭からなのだが、最初はそれとは気づかないまま読み進めていった。だが一度そのことに気づいてしまうと、一行一行からそうした臭いが立ちのぼってきて本全体がとても胡散臭く感じられてしまってきたのであった。

 たとえば「過度な理想化を防ぎ、相手の現実の姿を受け止めるために、相手を見抜く眼力を養うことも必要だろう」(P289)と著者は書く。このことが分らないというのではない。しかし、「相手を見抜く眼力が必要」なのは、果たして「過度な理想化を防ぐ」ときのみに限られるのだろうか。私には、特定の場合に限らず、言わせてもらえるならそうした努力は、「どんな時」にも必要なのではないかと思えるのである。

 それをあたかも「こうした特定場面」だけに必要であるかのように述べ、しかも「だろう」などといつでもそこから逃げ出せるような形容詞を付加するのは、まさにその発想がオリジナルでもあるかのように仮想した独断でしかないような気がするのである。

 またこれに続き、「愛着形成の段階で問題が残ると、・・・傷つきやすかったり、気分が不安定だったり、自己否定が強まりやすいだろう。信頼が簡単に不信に裏返り、関係を維持すること自体が難しくなりやすい」(P289)とも筆者は言う。

 これは筆者の個人的見解なのだろうか。それとも社会的に認知された多数意見なのだろうか。前者であればそうした見解の基礎となる根拠を示すべきだし、後者であるとしも何らかの資料を引用するなどして呈示すべきではないだろうか。それとも、「私の意見なのだから無批判にそのまま信じろ」とでもいうのだろうか。だとするなら、どうして「・・・やすい」などと中途半端な言葉で文章を締めてしまったのだろうか。

 「・・・やすい」ということは、そうならない人がいることを前提にしているからこそいえることだろう。そうしたとき、「そうならない人」は学説に反する例外的な存在なのだから常識的な自然人には含めないということなのだろうか。特殊例外的な事象として、人間観察の対象から外すべきだとでも言うのだろうか。

 こうした論理の進め方は、私には「風が吹けば桶屋が儲かる」式の組み立てに過ぎないとしか思えないのである。そうして逆に、それは筆者が「風が吹いても桶屋は儲からない」ことを自ら認めているのと同じだと思えるのである。小さな可能性をいくら掛け合わせたところで、その度にその答は事実からどんどん遠くなっていくように思えてならないのである。

 そして更にこうした「・・・なりやすい」だとか「・・・だろう」などのような推定を重ねる文章に、筆者特有の「断定」を加えることで著者の考えの混乱は、一層増してくる。

     少し前置きが長くなってしまいました。「作られた因果関係(2)」へ続きます。

                                     2015.3.6    佐々木利夫


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作られた因果関係(1)