今週のエッセイは新聞投稿にヒントを得たエレベータに乗ろうとして先を越された人の話(別稿「エレベーターの順番」参照)と、この「命と責任」の二本である。このテーマもまた新聞投稿によるものなので、今週は二本とも同じきっかけがネタ元になってしまった。
 この「命と責任」と題したテーマは、野良犬や野良猫と街の人たちがどう接したら良いのかをめぐるものである。それはこんな投書だった。

 「生き物の命 粗末に扱わないで。 京都市が提案した『動物との共生に向けたマナー等に関する条例案』を市議会が可決した。飼い主がいない動物に不適切に餌をやると、最高5万円の罰金が課されることがある。・・・しかし、餌やりを絶つことで、飢え死にする猫が出ないか心配だ。・・・(これは)殺処分せずに避妊や去勢などで・・・数を減らす・・・方法を・・・無視した条例だ。私なら目の前に餓死寸前の野良猫がいたら法に触れても食べ物を与えると思う。確かに、やたら餌を与えて、繁殖する状況を放置するのは良くない。条例は生き物の命を粗末に扱っているような気がしてならない。・・・早く廃止し命を全うさせる方法を模索するべきではないだろうか」(2015.3.30、朝日新聞、神奈川県 女性30歳)

 なんとなく正論に聞こえるようなこの主張には、いくつかの矛盾が含まれている。それは投稿者自身が感じているようにも思えるが、あえてその思いを隠したまま正論部分のみを表に出しているように思える。だが、一読してその主張の矛盾は明らかである。

 投稿者は「目の前に餓死寸前の野良猫がいたら法に触れても餌を与える」という。ただその背景に、単に「餌やり」が形式的にも実質的にも条例に違反する行為だと理解していただろうのみならず、条例の制定がなぜ必要であったかの理由をも知っていることがうかがわれる。なぜなら「・・・繁殖する状況を放置するのは良くない」と、条例制定の要因らしきものにも触れているからである。にもかかわらず投稿者は、法の遵守よりも野良猫の命の方が大切だと言う。

 「命はどんなものよりも大切だ」とする理屈は、いかにも正論に聞こえる。そうした思いをまるで分らないというのではない。だが私たちは「命を絶つ」という行動の中で自らの人生が維持されていることを、どこまできちんと理解しているのだろうか。もしかしたら投稿者は、犬、猫の命は蛇やネズミの命よりも人間に近いから、より大切なのだと考えているのかも知れない。また、犬、猫の肉を人は食料にしていないのだから、その命を奪うことは単なる「無駄な殺戮」であって、人間の利益につながるものではないと思っているのかも知れない。更にはもしかしたら投稿者は猫を飼っていて、その猫と野良猫とをどこかで重ねているのかも知れない。

 「命の尊厳はどんな場合にも人に与えられた最優先の命題である」とする思いは、時に問答無用の宗教もどきの様相を呈しやすい。でも主題たる「命」に、「どんな種類の命もすべて含まれる」と考えてもいいのだろうか。恐らく「命」に「質」であるとか、はたまた「順番」みたいな価値基準を持ち込むことに対しては、きっと投稿者は否定するだろうと思う。「命に質も順番もない」ことこそが、命の本質だと思っているだろうからである。

 だがそうした「思い」と現実の「命」とは真っ向から対立する。それぞれの立場に理屈はあるだろうけれど、クジラの命を守ることは牛や豚の命よりも大切だと思っている人たちがいるし、蚊やネズミの駆除に異を唱える人はあまり聞いたことがない。テロリストの考えは非常識だというかも知れないけれど、飛行機を乗っ取ってビルに突っ込んだり、婦女子を誘拐して奴隷として売り払うと公言する人たちもいる。そして人は、トリアージと称して災害時の負傷者を助かる可能性のある人、助からないだろう人に分別することさえある。

 人と人、人と動物、動物と動物・・・、そうしたそれぞれの「命」に対する思いは、そのまま動物と植物、植物と植物、微生物と細菌、細菌とウイルスなどへと、際限もなく続いていく。「命」について思いをめぐらすとき、一つの分りやすい基準を考えることができる。それは「かわいい」である。「かわいい命」は大切だけれど、「かわいくない命」は無用だとする基準である。ましてや「かわいくない」うえに人間にとって役に立たない命など、人は気にかけることすらしないのである。無関心どころか時に命を奪うことを奨励することすらあるのである。

 そうした命に対する混沌の中に私たちは生活している。「だから命が大切なのだ」と言うかも知れない。だからこそ「命を大切にする心を育てるべきだ」と言うかも知れない。しかし私たちが命について考えるとき、自分の命、恋人の命、肉親の命、友人の命、国民の命、愛するペットの命・・・、そしてアフリカで飢え死にしていく見も知らぬ人々の命、内戦から亡命し地中海で散っていった多くの難民の命などなど・・・、これら数多の命について、私たちはどこまで「共通の命」としての認識を抱いているだろうか。

 この新聞投稿による投稿者の思いを、そこまで大きな問題として考える必要はないかも知れない。たかが「野良猫に餌をやるな」という条例だけのことである。背景には恐らく「餌を与えることで野良猫が繁殖し、糞尿や泣き声などによる被害が多発する」があるのだろう。そのことは投稿者自身が理解しているはずである。そして同時に「猫の命も大切だ」との葛藤の中で答が出せず、仕方なく正論である「命の大切」という考えへと逃げ込んだのだろう。

 投稿者に欠けていたのは、代替案を示せなかったことにある。条例で餌やりを禁止した理由については投稿者も理解しているように思える。ただ、餌やり禁止→猫の死→野良猫の減少というパターンの中に、「死」の含まれることがどうにも許せなかったのだろう。恐らく「餌やり禁止による死」は「人為的な死の宣告である」とする思いが強かったのだろう。投稿者は投稿の末尾で「命を全うさせる方法を模索すべき」と書いているから、恐らく自然死を想定に置いているのだろう。

 どんな模索があるのか、投稿者には思いつかなかったのだろう。でも反対意見として投稿するからには「模索についての提案」のいくつかは提示すべきでなかっただろうか。

 例えば税金を使うことを厭わなければ、「野良猫収容施設とその管理人の設置」や「飼い猫を斡旋します施設の設置」などが考えられる。どこまで公費を使うかはまさに「殺処分」や「餌やり禁止」などと競合する場面が多くなるだろうけれど、投稿者の一方的な「命大切」一辺倒の理屈よりは説得力があるのではないだろうか。野良猫増加の要因には、野良猫同士による自然繁殖もあるだろうが、恐らく「飼い猫」の放棄であるとか、去勢手術への怠慢なども多いことだろう。

 原因は人にある。野良猫の発生原因のそもそもは人であろう。その責任をないがしろにしたまま、単に「餌やり禁止」で野良猫の増加を阻止しようとする方法は、場合によっては安易過ぎる考え方かも知れない。だが、野良猫が発生する背景における人の責任は、今では追及できないまでになってしまっている。恐らく究極の手段としては「殺処分」であるとか「猫を捨てる行為に対する刑事罰」までいくのかも知れない。

 そうした観点からこの問題を見るとき、私には京都条例の定めた「餌やり禁止」という手段は、穏やかで妥当な範囲に入るように思えるのである。もちろん私にも、より適切な代替案を示すことができなかったという口惜しさは残ってしまうのであるが・・・。


                                     2015.4.30    佐々木利夫


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命と責任