カーナビやGPS内蔵の携帯電話、または前方注意や後方確認などのための車載カメラなどの発達によって、将来の車に運転手は不用になると言われている。いわゆる、車に搭載されたコンピューターが運転のすべてをコントロールする時代が間もなくやってくるとの話である。

 もちろん運転が省略されている乗り物は、今でも存在している。具体的なシステムまでは知らないけれど、たとえばロケットの発射や目的軌道への誘導などはその典型だろう。有人ロケットも多いことだし、地球周回にしろ月面着陸にしろマニュアル部分がまったくないとは言えないだろうけれど、今のところそのコントロールのほとんどは無人のように思える。

 そのほかにも飛行機では離着陸や緊急時などを除いて航行途中の操縦は無人だと聞いたことがあるし、時には着陸を任せる場合もあるとも聞いた。また無人による運伝は、新幹線や船舶などにも導入されていると言われている。また、東日本大震災における福島原発事故で、放射能が充満している原子炉の内部を無人運転によるカメラつき車両ロボットが撮影している姿を見ることも珍しくない。

 だから道路を走るいわゆるマイカーに、そうした技術が導入されたところで特段驚くことではない。走行に必要な情報は目的地だけであろうし、あとは事故が起きないようにその車の周囲の歩行者や他の走行車などを感知する機能、それに交通信号のチェックくらいであろうか。まあ、このほかに渋滞情報も入手できるなら、より早く目的地に到着できるというもんだ。

 もちろん車の目的は、基本的には二点間のAからBへと人を運ぶことにある。旅行に行く、仕事場から自宅へ帰る、買い物や病院に行くなどなど、出発地から目的地まで人の体を安全に運ぶことが目的である。もちろんロケットによる宇宙観測資材の打ち上げ、タンカーによる石油やガスなどの輸送、引越し荷物など物の移動を目的とする場合もあるだろうけれど、そもそも車の発想は人を運ぶことにあったのではないだろうか。それはマイカーであろうと、バスや電車などの交通機関であろうと変わりはない。

 それはそうなんだし、もしかしたら私だけの身勝手な思いなのかも知れないけれど、少なくともマイカーに関しては少し違うような気がしている。私が免許をとったのは50歳を目前にしている頃だから、まさに「普通の人が免許をとる」のとは異質であった。だからお前の免許に対する意識、つまり車の運伝に対する思いもまた参考にならないと言われてしまえばそれまでのことである。

 免許をとって、やがて必要なしと判断してマイカーを手放し免許を放棄した(別稿「運転免許始末記」参照)。その後はたまのハイヤーや通勤に使うバスなどを除いて車とは無縁の生活に入り、今では車のない生活にそれほどの不便は感じていない。それで改めてマイカーを持っていたときのことを振り返ってみると、決して車はA地点からB地点への移動だけを目的としていたものではなかったと気づくのである。

 もちろん移動することが車の主たる目的であることに違いはない。たとえ見知らぬ土地の木陰で気ままに好きな小説を読むために車を走らせるようなことがあったにしても、少なくとも「見知らぬ土地」への移動手段としてのマイカー利用であったことに違いはないからである。

 しかし、運転席で眠っていても目的地に着けることの方が、運転することよりもベターであるとの思いとは違うと思うのである。私が運転した車はマイカーとして2台、故障や旅行などでレンタカーを利用したことが2〜3度あるけれど、すべてマニュアル車であった。免許を取得した試験場の練習車がマニュアル車だったことが影響しているかも知れないけれど、私はマニュアル車にこだわっていたのである。

 それは、「運転する」というマシンの操作方法に魅力を感じていたことでもある。それは時に法定速度を僅かにしろ超えるスピードを車に命じられる快感であったり、追い越しのタイミングや方法を自分に納得させることでもあった。それはつまり、マイカーを自分の支配下に置くことができるという実感であり魅力であったということである。

 また時には、「サイドシートに女性を乗せてドライブする」というイメージにあったかも知れないし、変に思うかも知れないけれどオーバーヒートなどでエンストしてしまった車のボンネットを開け、慣れない手つきであちこちいじくり回しているうちにうまくエンジンがかかったときの快感であり、更には車内で聴くためのカセットやMDの装置を取り付けたり、様々なアクセサリーを選ぶ楽しみでもあったように思うのである。

 映画やテレビでしか見たことがないけれど、若者同士がエンジンを改造した車でスピードを競ったり、チキンレースと称して危険ぎりぎまで車を走らせることを競うゲームなどとも共通する。

 だからマイカーは決して、新幹線やハイヤーに代替できるようなしろものではないと思っているのである。運転とは「運転する」ことに意味があるのであって、運転席に座って読書をしたり車窓を眺めながら同乗者と談笑したりするようなことと代替できるものではないと思うのである。つまり私はマイカーを「移動手段」と「マシン操作にあこがれる男の夢」の合作だと思っているのである。

 だから今進んでいる自動化への途は、マイカーから「運転する」という夢や希望やロマンを根こそぎ剥ぎとってしまう、間違った選択ではないかと思っているのである。確かに車にA地点からB地点へ移動するという大きな目的があることは認めていい。またそのことに伴い、たとえば戸口から戸口へと人や荷物を移動するという目的をあげてもいいだろう。

 現在、路線バスが「決まった停留所を定時刻に回る」という機能から、利用者の希望する場所を停留所として選択させ、目的地やコースなども自由に選択できるシステムに変わりつつあるという。だとすれば、飛行機を飛行場のない場所に着陸させるとか、新幹線を希望する位置に停車させるなどの希望は難しいとしても、乗客が希望する戸口から戸口までに類似した要請は叶えられつつあるように変化していっているのではないだろうか。そして思うのである。完全に到着地までの自動運転システムが完成したとして、人はそうした機能を持つ車をマイカーとして選ぶのだろうか、そして果たしてそれを「マイカー」と呼び「愛車」と呼んでいとおしむのだろうか・・・と。


                                     2015.4.9    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ
 
 
 
自動運転車