政治家が使う常套句である「国民」が、どこまで「本当の意味での国民」なのかどうかについの疑問は、これまで何度もここへ書いてきた。だからそれが、「いかにも私が国民の声を代表しています」との単なるパフォーマンスに過ぎないことも、知らないではない。だが、こんどの安保に関連した法案についてはそんなにのんびりしていられないような気がしている。

 それは逆に安倍首相がこの言葉を発言したことで、逆に気になってきたのである。そのきっかけは、国立競技場の見直し論からである。この競技場は2020年の東京オリンピックの開会式場として使われるものとして、計画されたものである。

 当初計画は建設費1300億円ということでデザイン募集されたもので、ユニークな外観を持ったそれなり高額な建物であった。それが施工業者の見積もりなどによってこの予算では不可能ということになり、1600億円更にはとんでもない額の3000億円にまで跳ね上がってしまった。それではならじと、政府が規模の縮小であるとか開閉式の屋根はオリンピック後に施工するなどの変更を経て、2520億円という最終見積もりを出した。

 この額は、2012年のロンドンオリンピックの会場建設費900億円、その前の北京オリンピックでの513億円と比しても桁違いに膨大なものとなり、来年開催されるリオデジャネイロの550億円と比べてもとんでもない数値である。しかも専門家の意見をよるとこの金額は、施工に伴って更に膨れ上がり、恐らく3000億円を超えるだろうとの予測さえされるまでになった。

 原資は税金である。しかも日本は財政再建で倒産目前とされているギリシャのGDPに比較した借金比率をとてつもなく上回る国債依存の国である。つまり日本は、世界で一番借金の多い国なのである。その日本がそこまで高額な会場を作る必要があるのか、減額してその分を選手の育成や運営の補助などに回すべきではないのか・・・、そうした議論が各種世論調査などを通じて沸騰した。

 政府は、設計変更はいったん公表した国際公約に違反し信用を失墜する、新しく計画し直してもオリンピックまでの残る5年での完成が無理である、ことを理由にこの2520億円にこだわった。だが世論の反発は収まらず、加えて競技選手や当初設計に関わった建築家集団などからも疑問の声が出されるようになった。

 そして2015年7月17日(金)の首相会見である。その場で首相は、「主役は国民一人ひとり、アスリートの皆さんです。・・・国立競技場の建設は白紙に戻します」と宣言したのである。つまり、国際的な信用を失う、オリンピックまでに間に合わないとするこれまでの発表は、「国民の意見」という御旗の下で嘘であることを自認することになってしまったのである。

 そこまでは、私は特に違和感はなかった。国がこの程度の嘘をつくことは、それほど珍しいことではないと思っていたからである。ただその理由として政府が掲げたのが「高額な建築費を見直します」ではなくて、「国民の意見を聞き入れた」であったことに、どうにもやれ切れない思いを湧き上がらせてしまったのである。

 国民の声に従ったことはいい。それが政治家の基本的な姿勢だからである。だが私には、「国民の声に従った」という発言そのものが、嘘のように聞こえてしまったのである。

 ところで首相の言う「国民の声」は、一体どんな方法で首相に伝わったのだろうか。この競技場の設計を争点とした選挙や国民投票が行われたことはない。首相が独自に「国民の声」を代表するような諮問会議や専門家集団から意見を聴取したとの情報もない。また、フェイスブックなどのネットから情報を入手できたとするような報道もない。

 とするなら、一番分りやすい情報の入手先は世論調査である。それも省庁や国が世論調査を行ったとの報道はないから、恐らくは新聞・テレビなどのマスコミによる様々なアンケート結果を指すものだと考えるのが一番手っ取り早い「国民の声」の根拠だろう。

 母集団1000人規模のアンケートが、どこまで「民意を反映している」と考えていいかは、必ずしも私に分っているわけではない。恐らく統計的に有意な方法が採られているのだろうと想像するだけである。ただ、微妙に数値は異なるけれど、別の世論調査でも似たような結果が示されていることから見て、ある程度民意に近い意見が反映されているのだろうことくらいは理解できる。

 思い切って「国民の声」とは、世論調査の数値を示していると断定してみよう。安倍首相がこれ以外にどんな方法で「民意」を知り得たかの情報が、首相自身の口からもマスコミ報道からも伝わってこなのだから仕方がないだろう。

 だとするなら、「国立競技場を白紙に戻す」との報道の前日に、衆議院で自民・公明の賛成多数で強行採決された安保関連10法案に対する、国民の声はどうだと言うのだろうか。少なくとも世論調査はこの法案に対して賛成よりも反対する意見のほうが圧倒的に多い。私の感触としては反対というよりは、審議されている法案の内容がよく分からないというのが多くの人の実感のような気がしているが、そこは置いておこう。

 しかも憲法学者はこぞって、この法案の基礎となっている集団的自衛権の行使について現行憲法の解釈上許されない、つまり憲法違反であると主張しているのである。この辺のことについては、先週ここへ書いたばかりなので(別稿「憲法と安保」参照)、そちらを参考にしてほしい。

 新設する国立競技場の白紙見直しが「国民の声」を聞いた結果だというのなら、自衛権の中に集団的自衛権も含まれるとする憲法解釈の変更は許されず憲法違反であるとする意見もまた「国民の声」のはずである。それだけではない。「原発」も「沖縄基地の辺野古移設」も、少なくとも「国民の声」を世論調査に限定する限り「反対意見」になるはずである。

 「聞きたくない声」は「聞こえない」ことくらい承知しているし、時に人は「聞こえないふり」をすることも分っている。特に権力者にその傾向が強いことも知っている。もちろん、国会議員の選挙において、衆参両院とも多数である自民・公明を選んだのは国民である。だから、国会で与党の多数によって法律を決するのが民主主義のルールであるとする意見もあながち分らないではない。

 だが安倍首相の言う「衆議院で国民に理解を得られなかったとしても、参議院の議論の中で十分に理解を尽くしていきたい」との発言は、衆議院の審議とはその程度のものでしかないのかということに加えて、60日ルールを確保したとの現実のもとでは空疎に聞こえてならない。60日ルールとは、衆議院で議決された法案が参議院へ送付されてから60日を経ても議決されないときは、否決されたものとみなして衆議院で3分の2以上の再議決があれば法案を成立させることができるという憲法上のルールである。つい先頃、この国会の会期は9月27日まで95日間延長され、この再可決が可能な状況になっているからである。

 時に国民とはいかに無力であるかを感じることがある。しかもその無力さが、国民自身に起因していることを感じることもある。選挙結果とは決して白紙委任なのではないと思っていても、新国立競技場の見直し論が果たして「国民の声」を背景としてなされたのか、それとも便宜的に「いかにも国民の声」を聞いたふりを見せたい政府の思惑なのかは疑問である。なぜなら、2520億円は巨額ではあるが国家予算から見るなら、そして国の行く末を決める安保法案から見るなら、どうってことのないほどの問題である。更には、原発も沖縄基地問題も日本の将来にとって競技場建設とは比較にならないくらい大切な問題である。

 そうした大きな問題に関わる「国民の声」は届かないで、建築費が高いというただそれだけのことに政府はすぐに反応する。しかもそれ以外は「聞こえないふり」を決め込んでいる。こんな政府が果たして「真剣に国民の声を聞いている」と言えるのだろうか。「国民なんてこんなものさ」、「反対論なんて一過性のもので、そのうち自然消滅してしまうさ」・・・、そんな国民を無視したうそぶきが聞こえてくるようである。


                                     2015.7.19    佐々木利夫


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