それを個性と呼ぼうが独断と呼ぼうが、人はそれぞれに異なった意見を持っているのだから、それが私と違ったからといって間違いだとか嘘だと断定してはならないだろう。こうして長い間気ままにホームページへ雑文を書き連ねているが、まさにそれは私の独断でもあるだろうからである。

 ただそうは言っても、例えば新聞・雑誌への投稿であるとか著作などで発表される意見となると、少し違うのではないかと思っている。もちろんそうした意見も「意見である」という意味では、私と違う意見であってもそれなり尊重しなければならないだろう。それでも私的な独断と多少は公共性を帯びた意見とは立場の違いがあっていいのではないかと思っている。

 ところで最近こんな本を読んで、そのあまりの独断さに少し腹が立ってきたのである。『「まじめな」あなたに贈ります! 「ずぼら」人生論』(ひろさちや著、三笠書房)がその本である。気に食わなければそこで読むのを中断してしまえばいいだけのことである。だが折角手に取った一冊なのだから少しは付き合おうと思ったことが、いらいらを募らせることになってしまった。

 この本は、著者が懇親会旅行に参加するのが嫌で、幹事役にドタキャンを申し入れた話から始まる。彼は旅行の三日前になって、「旅行と親類の法事とが重なってしまうんです・・・」(P19)と幹事に伝える。翌年も同じ手を使い、「たまたま叔父の葬式とぶつかって・・・」とやる。そして、「"正当"な理由があれば、幹事役も納得せざるを得ない。わたしはまんまと煩わしい人間関係から逃れた」と書くのである。

 彼はそうした理由を本当に「正当だ」と思っているのだろうか。懇親会つきの旅行である。幹事はこのドタキャンのせいで、旅館・部屋割り・宴会料理・交通機関の手配などなど、多大な迷惑を受けたはずである。しかもその影響は幹事だけでなく旅館などの多くに及ぶであろう。法事や葬式が本当で著者が申し込み時に失念していたというのなら、それはそれでいいだろう。また仮に人には言えないような、しかもどうしても参加できないような事情が突然発生したのなら、仮に嘘をついたとしてもその心情が分らないではない。

 でも、このキャンセルは身勝手である。最初から欠席を申し入れることができなかった事情があったのならまだしも、他人の迷惑を考慮することなくドタキャンしたのである。これを「正当な理由」などとうそぶく著者の姿勢は、我がままの範囲を逸脱した許せない行為だと私は思う。

 更に彼はこんな風に嘘を定義する。「嘘が悪いことに変わりません。しかし、相手が敵なら、その敵を騙す嘘が『必要』なこともあるんですね」(P24)。なんとなく納得しそうな表現になっている。だが、「敵」であることの認定は誰がするのだろう。国民の全部が認めるような敵というなら分らないではない。でも嘘はそんな場面だけに限定されるのだろうか。敵かどうかは嘘をつく本人が決めることになるのだろう。そうすると前述の「嘘をつかれてドタキャンされた幹事」は、ここでは自動的に「敵」とみなされてしまうことになる。それとも著者は「懇親会そのものが敵」だとでも言いたいのだろうか。

 「日本人にはおおよそ、資本主義社会に競争は必要だが、それは悪だという認識が欠けているんです。(こうした立場から)ものごとを考えていくと、・・・会社の中で出世だ、昇給だ、と競争に血道をあげていることのバカらしてがわかってくるんです。・・・(そういうのは)刑務所の中で牢名主になりたい、威張りたい、というのとちっとも変わらない・・・囚人のたわごとです」(P30)。

 これを認めてしまったら、世界中の経営者はもとよりサラリーマンのほとんどがバカであり囚人であることになる。それを「囚人が刑務所でやる気を出してどうする」(P31)と一くくりにして批判するのは間違いどころか誤りである。

 千円札を「しあわせであれば人は燃やせる」ことを、一種の比喩として語る。それはいい。だが「ふつうの人にとっての千円は、金持ちなら十万円、百万円にも相当します」(p34)と金の価値を普遍的に拡大してしまうことには異論がある。金持ちが100円のケーキを食べるとき、その味が普通の人(貧乏人というべきか)の100分の1の味しかしないと本当に思っているのだろうか。彼は「燃やす」ことにも、「お金の価値」にも向こう三軒両隣の庶民の感覚とはまるでかけ離れたものを持ち、それを強制しようとしている。

 彼はまた「開け閉めするたびに中から一枚ずつ際限なしに金貨が出てくる魔法の財布」を例示する。財布を捨ててしまえるならそこで中断できるのに、開け閉めして増やすことにのみ執心し結局餓死してしまう貧乏人の話である(P43)。いかにも分りやすい話である。だが私は断言する。その貧乏人は決して餓死などすることはないと。ほどほどで満足するか、それとも酒池肉林の渦中にあってなお財布の開け閉めを続けるかはともかく、決して餓死などすることはない。食事もとらず餓死するまで開け閉めを続けると思うのは、著者が逆に金に執心しているからである。ほれ、よく言うではないか、「人が死んでもお腹はすくのね・・・」と・・・。

 マイホームの弊害として著者はこう述べる。ローンの返済、上司の顔色をうかがいながらの仕事、妻のパートなど、結局「家族に犠牲を強い、不幸に陥れている、・・・しかもローンを払い終えたマンションの値打ちは二分の一、三分の一になっている」(P48)。そして「そもそも借金をして欲を満たす」という考え方自体がおかしい。狂っているんです」とまで断定する。もちろんマイホームなど必要がないと思う人がいたっていいだろう。でもマイホームでささやかな家族団欒を願い満足感を味わうことを望む人がこれほど多い現実をまるで理解しようとはせず、そうした人たちを「狂っている」とまで断言する彼の意識が私にはとうてい理解できないでいる。

 気になりだしたら止まらなくなりました。この本を読むのを止めるか続けるか迷ったのですが、行きがかり上エッセイはもう少し続けます。

                                  「身勝手の越境(2)」へ続きます。


                                     2015.6.24  佐々木利夫


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身勝手の越境(1)