ひろさちや著、「ずぼら」人生論(三笠書房)の読後感の2回目です。

 どうせ図書館から借りた本だし、そんなに気に入らないのなら読むのを止めればいいのだが、気になるフレーズが次々と出てきてしまって、ついつい読み進めてしまっている。

 「わたしは携帯電話も・・・自動車も運転免許証ももっていません。別荘もないし、ゴルフをやらないからゴルフクラブもありません。まぁ、ケチの典型というわけです・・・」(P51)。

 だが、それしきのことで「ケチの典型」と自認すること自体に、ケチに対する評価の甘さが感じられてならない。その程度のことをケチとは言わないのではないだろうか。私はこれに輪をかけてピアノも指輪も持っていないし、旅行も、レストランでの外食も、更には音楽会や演劇などにも行く必要は感じていない。それなら私はケチを通り越しているのだろうか、それとも著者の言うとおりなら「必要ないと思うこと自体」が「ケチ」なのだろうか。

 百歳を超えたきんさん、ぎんさんに、「・・・あるインタビュアーが『稼いだギャラはどうするんですか?』と質問したとき、・・・こう答えたんです。『老後のために貯めておきます』。・・・これが日本の社会なんです。・・・きんさん、ぎんさんに欲しいものがあるとは思えません・・・」(P52)

 わたしもこの話をどこかで聞いたような気がする。だが私はこの回答を著者のように「欲しいものがないにも関わらず、貯金をしなければならないと思い込まされている日本社会の幣害の象徴」とまでは考えなかった。むしろ、とてもうまいジョークだと感じた記憶がある。どだい「百歳を超えているのだから欲しいものがあるとは思えません」とは、何たる傲慢であろうか。百歳を超えた老人は欲望であるとか希望などを持ってはいけない、持っているはずがないとでも思っているのだろうか。

 美味いものを食いたい、子どもや孫に小遣いをやりたい、建物の修繕などに援助したい、身の回りのものを買いたいなどなど、人は百歳を超えたとしてもまだまだ「欲しいものはある」と思うのである。仮に「欲しいものがない」ことを認めたとしても、彼女らの回答は決して「貯金すること」に意味があったのではなく、まさに素晴らしいジョークだったと思うのである。

 倒産した社長が気づいたという。「『なにも命までとられるわけじゃない。せいぜい、破産者になるだけのことだ。そうなったら、なったときのことだ』、・・・あきらめの視点からものごとを見ると、様相がガラリと変わるんです。足掻き続けていたときの恐怖感はなくなります」(P55)。

 破産した本人はいいだろう。だがその会社に商品を売ったり、出資したり、金を貸したりしていた人たちのことは考えなくてもいいのだろうか。本人は「倒産した」ことで開き直れるかも知れない。だが「倒産」には、従業員や家族、そして取引先・出資者など多くの人が関わっている現実を著者は無視し、「本人だけの個別の問題」として頬被りしようとしている。

 舌切り雀の童話を:例示し、持ち帰ったつづらの大小によって中味である宝の有無が生じたのではなく、「おばあさんは大きな葛篭を持ち帰りながら『もっといいものが欲しい』と思っている。その欲張り心が葛篭のなかの宝物を化け物に変えてしまったんです」(P60)と言う。

 童話が子どもだけに向けた物語だとは思わないけれど、この物語に果たしてどれほどの人が共感できるだろうか。でもそこまで著者が考えたのなら、どうしておじいさんはつづらを貰うのをことわり、素手で帰らなかったのだろうか。優しくて正直で欲のない老人という設定なら、すずめからの贈り物をことわるのが自然である。小さい欲と大きい欲の対比だけではなく、欲と無欲の対比、つまり「欲のない爺さん」の問題としてもしっかり考えるべきだったのではないだろうか。

 振り込め詐欺の電話がかかってきたとき、受けた人がアホになれたら、「そうですか。じゃあ、刑務所にいれてやってください。ひとさまにご迷惑をおかけしたんですから、どうぞ、遠慮なく」(P69)と答えられるという。つまり詐欺に引っかかることなどないとの理屈である。

 だが、この考え方の背景には、すでにかかってきた電話が詐欺であることを知っているという前提が見え見えではないだろうか。この電話は息子からではなく、例えば警察や弁護士などを騙った者からのものである。詐欺と知っていたからこそ、受け手はこんなに冷静な対応ができたのではないだろうか。

 しかしながら現実は、母親は「詐欺であることを知らない」のだし、「助けなければすぐにも息子は警察に捕まってしまう」と信じているのである。その上でこんな対応をとることが、母親として可能だと著者は本当に思っているのだろうか。もしそうなら、「アホになる」とは、人が持つであろう当たり前の感情を少しも理解できない人間になることを意味しているとしか言いようがない。

 「二人に一個しかパンがない状況で考えられる選択肢は四つです。・・・二人で半分ずつ・・・、一人が一個食べてもう一人は食べない、二人とも食べない、・・・パンを増やす・・・がそれです。このうち自民党が政策として掲げたのはパンを増やすというものだったわけです」(P82)。

 パンが一個しかないという前提は分った。だがこの四つあるとする選択肢はどう見ても変だ。この前提からすると、「パン」とはおやつの菓子パンなどではなく、必要な食料、場合によっては飢えにつながるかもしれない食べ物だと考えてもいいだろう。そうした時に第一と第二の選択肢は分る。だが二人とも食べないという選択肢など果たして考えられるだろうか。ましてや、パンを増やすことを選択肢に加えることなど論外である。なぜならそれは、「パンが一個」という前提を自ら否定してしまっているからである。

 著者はこの「パンを増やす」ことを選択肢の中から採用し、それを基に自民党政権のダメさ加減、そして2009年の民主党政権へ交代させられてしまったことの要因として延々と展開するのである。そして「すでに断末魔にある自民党は、今後、凋落の一途を辿ることになる」(P84)とまで断じる。民主党がその後数年を経ずして再び自民党に政権の座をとって代わられることを彼はまだ知らないのだから、その断定が外れたことを責めるのはよそう。だが、間違った前提を捏造して、あたかも自説が正論であるかのような言い方をするのはまさに我田引水であり、偏った結論への誘導になる。

 この著書は全部で189ページまである。最後に引用した文は84ページだから、おおよそ半分ほどまできたことになる。だが、この本のほとんどがこうした独断に基づく説教じみた解説になっているのである。そしてそのことごとくに私は反感を抱いてしまったのである。このまま書き続けていくなら、この雑文は恐らく4回も5回分にも及んでしまうことだろう。

 とうとう彼は、「犯罪者って何でしょうね。それを規定するのは、時代時代の国家です。・・・ときの国家の言いなりにならない人間、楯をつく人間を、国家が犯罪者と呼ぶんです」(P173)とまで断じる。そして「350万人もいる失業者が、いっせいに(軽微な)犯罪者になって刑務所に入り国家に迫る覚悟を・・・」(P175)との無茶なことまで言い出す。こんな非常識な定義や実現不可能な行動を提唱することで、他者の人生を律しようとすることは間違っているだけでなく無茶苦茶である。

 これまでの2回に分けて書いてきた論評は内容的にも舌足らずであり、10回書いてもまだ尽きないかも知れない。それではまさに私の雑文の方が冗舌そのものになってしまいかねないだろう。そんなこんなで、この辺で雑文を切り上げることにしたい。

 ともあれ私がここで言いたかったのは、タイトルに戻るけれど、「身勝手もいいけれど、意見は多くの人が理解でき、許容できる程度の範囲に止めるべきではないか」ということであり、それを極端に超えてしまっている「人生論」と名づけた著作に、著者の傲慢さが感じられてならなかったことである。

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                                     2015.6.25    佐々木利夫


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身勝手の越境(2)