特別相撲好きというわけではないのだが、夕方のテレビにはこれといって魅力のある番組がないこともあって、なんとなく相撲にチャンネルを合わせる機会が多い。そうは言っても午後5時半頃には事務所を出て、20分ほど歩いてJRに乗り込んで自宅へ向かうのが定番になっているから、せいぜいが出かけるまでの暇つぶしの時間ではある。

 もっとも相撲の本場所が年に6回もあるという状態が、私には少し多すぎるような気がしている。もっとも「そんなら見なけりゃいいじゃないか」と言われてしまえばそれまでのことではある。それはともかく「ながら見」にもかかわらず、数日前に終わった九州場所で生じた何度かの「物言い」が少し気になった。

 相撲については9月に「立会い」について書いたばかりである(別稿「大相撲と立会い」参照)。ということは今月になってまたぞろ大相撲が始まったということになる。一場所が15日で6場所だから年に90日の本場所になる。だから4日に一回は本場所が開かれテレビ中継がなされていることになる。だから「またぞろ」と思うのも当然かも知れない。私が子供の頃の大相撲はラジオ中継が専らで、少年雑誌にも関取の写真が載っていたように思うけれど、場所数はもう少し少なかったような気がしている。

 それはともかく今回気になったのは、「物言い」が多かったこと、そして「行司軍配差し違え」との判定が多かったことについてであった。行司を勝敗の判定者と定め、この者の立会いの下で二人の力士が土俵上で戦うのがこのスポーツと言うかゲームのルールである。二人の力士が土俵上で見合い、気を充実させて勝負に挑む、勝負の判定は行司に委ねる、これが相撲のルールである。ただ土俵の周囲に「審判員」が5人いて、行司の下した判定に誤りがないかを監視することになっている。その監視の具体的な手段が「物言い」である。

 審判員の一人または複数の者から「物言い」がなされると、審判員全員が土俵に集まって行司の判定結果について協議し、その判定が正しい、誤っている、審判員にも勝負の判定がつかなかったので取り直しをさせる、のいずれかを決定することになる。多くの勝負に認められている「引き分け」という制度が相撲にはないので、常に「勝ち」か「負け」かの判定が求められることになるのは相撲のルールがそうなっているのだからやむを得ないとも言える。優勝を目指すことや一場所が15日という奇数で決められていて、勝ち数が多いか負け数が多いか、つまり8勝を超えたか8敗以上の負けが込んだかで力士の評価が決められることになっているシステム上、引き分けのないことは分る。

 だからこそ「勝敗が重要」であり、その判定が公正になされる必要があることは当然である。そしてその担保のための「審判員制度」であり、物言いの制度なのだと思う。そのことが分らないというのではない。

 だがある行司が審判員から「差し違え」、つまり勝敗の判定を間違ったとの指摘を受けた事例が起き、しかもその行司にはこの場所でそうした間違いが二度あったのだそうである。私が気になったのは、その行司が相撲協会に対して引責するとして「退職」を申し出たことについてであった。申し出は慰撫されて実現しなかったらしいが、私にはそこまでの責任を行司に思わせている審判というシステム(行司への責任の重さ)と審判員制度とのバランスがどうにもとれていないように思えたのであった。

 そしてそのアンバランスの感触は、相撲中継をしているアナウンサーの一言で更なる追い討ちをかけられることになった。土俵上に集まって協議している審判員を映しているカメラ映像に重ねて、アナウンサーはこともなげにこんな一言を相撲解説者に語りかけたからである。「別室の監視員がビデオを分析して審判員に知らせているのでしょうね・・・」。審判員は確かに行事の判定に物言いをつけた。それは恐らく自分の見ていた勝負の結果と、行司が示した判定とが違うように感じたからであろう。そしてその疑いを、同じ勝負を見ていた他の審判員と討議したいと思ったのであろう。行司は一人である。審判員は上の写真で見る限り5人いるようである。一人の目によるよりも五人の目による判断を、相撲協会は正しい判定としてこの制度を選んだのである。

 審判員制度がどこまで望まシステムなのか、私には分らない。ただ、この一言で審判員の目だけでなく勝敗の判定を記録装置としてのビデオというマシンに任せることを加えたという事実が分ったのである。恐らく土俵上の審判員の耳には、別室のビデオ判定室と無線でつながっているのだろう。審判員がビデオを見ているような様子は中継されていないから、彼らは物言いがついた勝負が再生されているビデオを見ている別室の「誰か」の意見をリアルタイムで聞いているのだろうことが分る。そしてそれはアナウンサーや解説者にとっては当たり前のことなのである。

 「先に足が出ていた」、「先に体が割れていた」、「チョンマゲに指をかけて相手を倒した」などなど、勝負の判定が難しい事例には色々な要素があるだろう。それを総合的に判断するのが行司の役割である。時に間違うことがないとは言えない。視線が一つしかない行司である。常に正しい判定が出来るような場所にいなければならないことも、行司には要求されていることだろう。それでも人の判断なのだから間違うことがないとは言えない。しかも判定を間違うことは、優勝者の決定や力士の将来に大きな影響を与えるのだから、「決して間違ってはいけない」ことが行司に要求される最大の使命であることはよく分かる。

 人の判断は時として間違うことがある。だからこその審判員制度の採用なのであろう。ビデオは勝負に要した30秒を、何倍にも長く延ばして検証することができる。複数のカメラを設置することであらゆる角度からの撮影が可能である。例えば「同時」という判断だって、いくらでも細かく分割することができる。カメラの精度にもよるだろうけれど、理屈の上では片方の力士はもう一方の力士よりも一万分の一秒早く地面に落ちた、との判定だってすることは可能だろう。

 ところが行司にはそうしたゆとりはない。「今の勝敗は分らなかったので、後刻ビデオを見てから判定する」、「少し考えたいので判定を1時間待って欲しい」、「同体と思われるので引き分け、あるいは取り直しとしたい」、などなど仮に勝負の判定に迷う場面が多々生じても、行司が判定の猶予なり裁量を求めることは許されていない。勝負がついたと思われる直後に、行司はその判定を必ず宣言しなければならないのである。

 今から数十年も昔のことである。ある著名な野球審判員が、自身が下した判断が間違っていたのではないかとメディアから証拠となる写真を添えて質問された事件があった。審判員は「写真が間違っている」とだけ答えた。私はこの出来事に、どことなくその審判員を応援したくなったことを記憶している。

 恐らく写真は真実を語っていたのだろう。その審判員の下した判定は、写真を見る限り間違っていたのだと思う。でもその審判員は、「写真よりも自分の目こそが真実なのだ」と言い放ったのである。そしてそれが「審判員なのだ」と語ったのだと思う。

 行司の判定がいい加減でもかまわない、などと思っているわけではない。だからこそ、この行司は行司であることを辞する決意をしたのだと思う。勝敗の判定を「勝負に立ち会った一人の瞬時の判断に任せる」、これが行司というシステムだと思うのである。相撲はそうしたシステムを採用したのである。それは、場合によっては仮に判断を間違えても、「写真が間違っている」と言わしめるだけの権限を与えたことになるのではないだろうか。

 そしてそうした「一種の間違い」、「厳密には間違い」、「科学的には間違い」かも知れないことを許容するゆとりを、私たちは持っていたはずである。それとも現代はそうした「ゆとり」をも失ってしまった時代になってしまったのだろうか。

 ビデオはこれからも益々発達していくことだろう。もっと高画質に、更なる寸秒に分割できるような性能を持つようになるだろう。そしてそれは確かに「科学的に正しい」判定を、より精緻に決定する手段として利用することを可能にすることだろう。そしてそうした手法が、「勝負を判定する手段」として望ましいとするなら、行司のシステムなんぞやめることである。ビデオカメラを増やし、しつかりした判定員を置くことで、「物言い」はもとより審判員という制度そのものがなくなっていくだろうからである。

 それとも相撲はスポーツではなく単なる「ショウ」、見世物と化してしまったのだろうか。裸の闘技、チョンマゲスタイル、行司、呼び出し、触れ太鼓や審判員などなど、相撲協会そのが興行になってしまったのだろうか。そんな気のしないでもない。相撲は単なるお遊びゲームであって、決して国技なんてものじゃないとの思いもしてこないではない。そしてそう思ったほうが、現在の相撲を理解しやすいのかも知れない。あれはサーカスと一緒なのだ、ピエロの一輪車乗りを私たちは見ているのだ、熊の格闘技でありマジックショーなのだと思っていくことが、これからの相撲のあるべき姿を示唆しているのだろうか。


                                     2015.11.26    佐々木利夫


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「物言い」に物言い