世の中に正義は満ち溢れている。個人の正義や国の正義などが、正義であることを前面に出して他者を責め続ける。そしてそれぞれの正義が「我こそが正義である」と主張し、その正義が他者の正義と異なることを理由に互いに対立していく。正義は他の正義とぶつかるのである。そして時に正義は他の正義を否定し破壊し、力で抹殺することさえ許容するのである。

 今から50年以上も前のことになるが、高校を卒業した私は税務大学校普通科(当時は税務講習所と言った)で、一年間税法を基本とした様々な研修を受けた。このとき初めて「刑法」という独立した授業に触れたときのことである。大学から派遣された講師が、「カルネアデスの板」という寓話を私たちに話してくれた。それは「さあ、君たちならどうする」みたいな問いかけで、その答は決まっているにもかかわらず70歳を過ぎた今でも解けないまま私の中に残っている。こんな寓話である。

 船が難破して私を含めて何人もが海に投げ出された。私は運よく近くを流れてきた一枚の板につかまることができて、どうやら助けを待つことができる状態にある。しかしそこへもう一人の漂流者が私のつかまっている板を目指して近づいてくる。だが私のつかまっている板は私を支えるだけで精一杯である。二人がつかまったら、二人とも海に沈み溺れてしまうだろう。

 さあ、私はもう一人の漂流者をどうすればいいのか。授業の内容は、近寄ってくるもう一人を私が非情に突き放したとき、その行為が刑法上の殺人罪に問われるか・・・、というものだったと思う。

 答は分る。恐らく私が行った突き放すという行為は、恐らく緊急避難として殺人罪に問われることはないだろう。仮にその方法が単に突き放すのではなく、殴り倒すことであろうと、絞殺であろうと、はたまたピストルで射殺しようと同じであろうと思う。それはそうしなければ「二人とも死ぬ」のであり、一人なら生き残れるかも知れないからである。

 これは正義だろうか。少なくとも無罪となる背景には、「私にとっての正義」が社会の正義として承認されるとの前提があるのだろう。だが、その正義は私のつかまっている板切れを目指して必死に泳ぎ着こうとしている相手にとっての正義ではない。彼にとっての正義は、その板切れが一人しか救うことができないことを前提にするなら、私を押しのけてでもその板切れを奪うことである。私を殺してでも板切れを手に入れることが正義である。

 ここで私の正義は、相手と真っ向から対立するのである。私の正義は、相手にとっては不正義である。そしてその逆もまた等価として成立する。だから相手が私を排除してその板切れを手に入れたとしても、恐らく相手が罪に問われることはないだろう。それとも、私が先にその板切れを見つけたのだから、私に優先的な利用権もしくは占有権があり、それを阻害する行為は犯罪とされるだろうか。

 恐らく私は、たとえ相手が尊敬するに足る人物であり、場合によってはアインシュタインに匹敵するような世界の頭脳と評される人物であったとしても、私がつかんでいる板切れを手放すようなことはしないだろう。それは相手との精神的距離に関係してくるのかも知れない。相手が配偶者でも同じように突き放すか、我が子でも同じか、親や孫でも変わらないかなどなど、悩む場面が出てくるだろうことは否めない。

 そんな正義が先ほど述べた無限と言えるほどの正義とぶつかるのである。しかもその個々の正義の正義の程度が異なっているような場合、そのぶつかり具合は更に複雑になる。私はまだ体力が残っておりその板を手放しても、あと一時間くらいは泳いでいれるとする。だが相手はすぐにでも溺れてしまうほどの弱者である。正義は私の体力の尽きる間際までの時間の問題なのだろうか。手段とか体力とか財産などなど、個人に与えられた様々な違いによって正義は左右されるものなのだろうか。更に正義が国とか民族にまで広げてしまうと、そのぶつかり具合は最早収拾がつかなくなる。

 ナチにユダヤ人殺戮は途方もない不正義であろう。だが、それをヒトラー一人の責めに帰すことはできない。恐らく当時のドイツ人の多くが、洗脳されたにしろ、教育によるものにせよ、権力の発する命令に従ったにせよ、ユダヤ人排除を承認したのである。日本でも同じである。鬼畜米英の思想、欲しがりません勝つまではの思い、特攻隊への志願、死して虜囚の辱めを受けずとの信念などなど、日本人全員がそうだったとは言わないけれど、多くの日本人が戦争を賞賛したのである。

 無限の正義があり、組織やグループで正義のニュアンスが異なり、時代によって正義の評価が異なってくる、そうしたまさに収集のつかないまでの正義の中で、私たちは正義をどのように考えたならいいのだろうか。「私は神である」と信じている精神病者の狂気は、それはどんな基準で正義ではないことになるのだろうか。ヒトラーの民族浄化の思い、アラーの教えに反するすべて(たとえそれが独断だとしても)を破壊すべきとの思い、テロ集団は殲滅すべきとの思い、生活保護はもっと充実すべきだとの思いなどなど、果たして正義に線引きはできるのだろうか。そしてそうした思いは、「神は常に正義なのか」という根源的な問いにまで及んでいくのである。


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                                     2015.8.28    佐々木利夫


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