「怠惰への誘い(1)」の続編です。
 そうした嫌気を、必ずしも怠惰であると決め付けるのは間違っているだろう。だからと言ってそれを正義感と名づけるにはいささかおこがましい気もするけれど、少なくとも「自分の信念」みたいな思いが含まれていると思えるからである。ただそれがどんな思いだったにしろ、仕事から離れるということは「仕事をしていない時間」の増加を意味することになる。つまり、俗な言葉で言うなら、「暇ができた」ということである。

 それを「暇」と呼ぼうが格好良く「余暇」と名づけようが、そうした時間をどう過ごすかが次に問題となる。どんな過ごし方をしよう思ったところで、時間を貯蓄しておくことはできないのだから、一日24時間という総枠は変えようがない。そしてその時間の過ごし方は、自分の意思によらない昏倒とか睡眠薬などによる意識喪失などの場合を除くなら、「眠る」かそれとも読書や仕事や食事やゲームに興ずるなどの「起きている時間」として消費するしかない。

 「眠ること」が人が生きていくために必要な時間であることに違いはないだろうが、必要な限度を超えた眠りにまでなってしまったら、それは怠惰の一種だと理解してもいいのではないだろうか。まあ、「世の中に寝るほど楽はなかりけり。浮き世の馬鹿は起きて働く」との俗諺もあるくらいだから、眠りもまた時間の過ごしかたとしては貴重なものかも知れない。ともかく、眠ることが怠惰か貴重な時間の使い方かの判断はこれくらいにしておこう。

 ところで70歳を超えてしまうと、これに三食昼寝付きという「ひとりの事務所のひとり暮らし」環境が加わると、それほど睡眠にこだわる必要はなくなってくる。それは決して浮いた時間を「有意義に使いたい」とか、「有効活用したい」などといったプラス思考の意味を持つものではなく、夜の就寝も含めて「いつでも自由に眠れるのだから、あえて余った時間を眠りに使う必要などない」というだけの意味にしか過ぎない。と言うことは次に「眠りにも使わない暇という時間」を、どうするかが問題となるのである。

 仕事は「怠惰への誘い(1)」でも書いたように、今ではそれほど熱心にやるつもりはなくなっている。ましてやサラリーマン時代と違って給料を貰っての拘束された時間というものもない。まさに自分の好きなように使える時間である。読書もいいだろうし、楽器をいじるのもいいだろう。もちろんこうしたエッセイを作るために費やすのもいいだろうし、ネットサーフィンに興じることだって思うがままである。なんなら一日中自らも認めているような「こんな過ごし方なんて馬鹿らしいテレビ番組」を、見るともなしにつけっぱなしにしておくことだって可能である。

 そうしたとき、「水は低きに流れる」ことを実感するのである。何をするにも、それなりのエネルギーが必要となることはよく分かる。そうしたエネルギーの消費を、どこまで興味のある過ごし方だと感ずるかは人によって異なるだろう。読書にしたところで哲学書や心理学関係書を読むのが楽しいと思うか、剣豪小説や推理小説の方が楽しいと感ずるかは、それぞれだと思う。ただいずれにしても、過ごし方は「私自身か楽しいと思う」方向へと流れていくのである。なかなか上達しない楽器演奏にチャレンジするか、それとも自分でも下らないと思いつつも椅子に座ってコーヒー片手に安手のテレビドラマに興ずるかの選択は常に隣り合わせになっている。

 もちろんフルートの練習にしたところで、目に見えてジャンピェール・ランパルに近づいていけるのなら努力のし甲斐があるというものだろう。だが、数年をかけてもサッパリ進歩がないように感じているときは、どうだろうか。ニイチェの著作より、鬼平犯科帳のほうが面白いと思ってしまったら、一体どうしたらいいのだろうか。まさに水は自然に低いほうへと流れていくのである。楽なほうへと選択肢が移っていくのである。

 そうした選択が必ずしも誤りだとは言うまい。ゲーテを理解しようとすることと、漫画の天才バカボンの人生観に打ち興じることの差に優劣をつけようとは思っていない。それはそれぞれに異なった思いや評価があると思うからである。それでもなお、自分の中にはそうした選択になんらかの価値観の評価(例えば高尚さと下劣さみたいなもの)をぶつけようと思うようになってしまう。微積分の記号が並んだ書物を広げることと、落語やテレビゲームに興味をぶつけることとは、どこかで違うのだという声が自分の中から聞こえてくるのである。そして努力や集中力が少しでも安易なほうへと向かってしまうことを感じ、そうした感情を自分の中でつい「怠惰」と名づけてしまいたがるのである。

 そして更に困ったことには、そうした意味での「怠惰」が自然と習慣化していくのである。少しでも苦労の少ない方へと、あたかも水が低きへ流れるかのごとく常態化していくのである。その方向が、自身にとって望ましいと思えるような状態を向いているのならいいだろう。だが、安易だとか苦労が少ないというのは、どうしても望ましい方向とは思えないのである。

 自分の人生なのだから、どこを目指そうとそれはそれで勝手だろうと思わないではない。哲学書を読もうと、酒池肉林の渦中に我が身を置こうと、それを自身が選択したという意味ではまさに「自己責任」だからである。他人にどうなじられようと、「自らがそれを選んだ」という結果を恥じることなどないはずである。例えその選択結果を数年後に悔やむことになろうとも、少なくとも「選択した現在、後悔するまでの今」の間は、「自分で選んだ」という自覚の中に我が身を置くことができるだろう。

 だが、結局のところ他人は私に対しては無関心である。仮にその選択に対して批判的であろうとも、つまるところ無責任であり、終局的には無関心である。他人の指摘に対して「自己責任」という名の壁による対抗措置は、つまるところ空振りでしかない。「自分で選んだ」という誇りも、結局は我が身の中だけを循環する空疎な誇りにしかならないことになる。

 ましてや、その選択に対して自身が疑念を抱いているようなときには、その選択はそのまま「怠惰への選択」を示すことになってしまうのである。もちろん、難解な書物に挑戦することにそれなりの満足感があったとしても、それがそのまま「自分で選択したことに対する満足感」として生涯続いていく保証はない。世界に冠たる思想を理解しようと挑戦したとして、そしてそれが選択したことの満足感につながることがあったとしても、数年を経たときに終生の満足感につながるとは限らない。その思想を「とうとう理解できなかった」としたなら、その挑戦に費やした時間は徒労となるのではないか、後悔につながるのではないか、結局は無駄な時間の消費になってしまったのではないか、とも思えてくるのである。

 果たして怠惰とは一体何を示しているのだろうか。長いすに横になりながらポテトチップスを口にして、日がな一日テレビ三昧で暮らす生活を、「カウチポテト族」と呼んでいささか揶揄的に批判する風潮がある。そうした批判が分らないではないけれど、だからといってトルストイを読み終えて「何が何だかさっぱり分らなかった」と感じることを、賞賛しようとは思わない。そして更に仮に多少トルストイを理解できたとしても、そのことが「私の生涯」にどんな影響を与えるのかとは、無関係であるような気のしないでもない。

 だとするなら怠惰とは結局、「誰にも評価することなどできない架空の絵」なのかも知れない。怠惰と感じようが、はたまた賞賛に値する努力と思おうが、費やす時間への評価は他者の誰にもできないのだと老税理士は達観したいような気がする。そして本を読み、テレビを見、楽器をいじり、吹雪の雪道を毎日歩く中で、何が自分にとって望ましい選択なのかを混乱とともに模索するのみである。そしてそんな模索の只中に身を置いて、今日は怠惰な過ごし方だったかも知れない、いやいや少しはましな過ごし方だったかも知れないなどと、戸惑いを繰り返していくのである。そして時に「怠惰もそれなり楽しいことかも知れない」とふと思い、貴重な時間の無駄遣いになっているのではないかと焦ったりもしているのである。

 そしてこれがここに書きたかったことの本音なのだが、その「それなり楽しい」とする低きに流れる思いが、少しずつ確実に私の中で増えていっているような気がしてならないのである。

                                     2015.1.8    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ
 
 
 
怠惰への誘い(2)