10億円とは、今年発売された年末宝くじ一等の前後賞を含めた当選金額である。とは言っても射幸心に乏しく、賭け事にはとんと興味のなかった私にとって、競馬競輪パチンコ宝くじなどなど、テレビドラマで見るカジノの饗宴なども含めて、少なくとも無縁であり無関心であった。そはさりながら齢70数歳の私の人生に、宝くじや競馬などが丸っきりかかわりがなかったかというと嘘になる。

 出張などで列車を待つ間の無聊を、駅前のパチンコ店で紛らわしたことがないではない。また職場で共同で宝くじを買って当選金を分配すると言うゲームに一口乗ったことだってある。更には同窓会だと思うのだが会費の余りの精算や、ビンゴゲームなどの景品に宝くじ券が配られたことなどもあったような気がしている。

 ただ一種の射幸心を目当てとするゲームには、主催する者に一定の金額の取り分が予め決められており、その残余を購入者に配分することが共通している。宝くじや競馬・競輪は国や自治体が一定の収益を目的にくじや馬券などを販売しており、パチンコやカジノゲームなどは遊興施設経営者の利益確保がその目的になっているからである。

 つまり購入と配当とは決してゼロサムになることはなく、常に配当総額が購入された額を下回ることが予定されている契約なのである。どの程度の割合で配分されるかなどのシステムをきちんと理解しているわけではないが、例えば宝くじの売り上げが1000億円と予想されるとき、販売にかかる印刷費や人件費、店舗の設置や宣伝費などに100億円かかり、国が財源として欲しい金額が400億円だったとする。この諸経費と財源確保の合計500億円を差し引いた残余の500億円を宝くじ購入者に分配するだけのことなのである。

 こうした原資から控除される額が最初から決まっていて残余が配分されるシステムというのは、「うさんくささ」ではなくまさに「損が当たり前」であることを示しているから、私の購入意欲をそもそも刺激しないのである。もちろん「損が当たり前」とは言っても、それは購入者をトータルした場合の話であり、一定の確率で当選者が出ることを否定するものではない。

 因みに平成23年度の宝くじでは売り上げ総額は約1兆円であり、その配分は当選金に46%、自治体等の収益41%、諸経費12%、社会貢献費1%になっているとの報告をネットで見ることができた。つまり宝くじはたかだか4割しか購入者の手元に戻ってこないのである。そして一等賞に当たる確率は2000万分の1でしかないとの記事もあった。

 今朝の新聞に、景品を餌に商品の購入を誘っていた雑誌が摘発されたとの記事が載っていた。なんでも発表した賞金の当選人が一人も実在していなかったとか、当選商品発表者の半分以上が架空に水増しされていたという事件らしい。それは当選そのものが嘘なのだから、宝くじの場合とは違うとは思う。そのため、国や自治体が宝くじの確実な当選者を保証していると思うからである。だからこそ、「ゼロに近い確率にしろ当たる人がいる」、「買わなけりゃ決して当たらない」と思う心につけこむのが、射幸なり賭博の目的なのだろう。

 さて今年の年末の宝くじの一等賞金は、前後賞を合わせて10億円なのだそうである。一等賞は一枚で7億円の当選金であり、続き番号でこの一等の前と後の番号それぞれに1億5千万円が付加されるということらしい。従って宝くじ3枚を連続番号で買って真ん中の番号が一等賞になった場合、合計で10億円の賞金が転がり込むというわけである。しかも宝くじの当選金は法律で非課税とされているから、10億円丸々が購入者の懐に残るというわけである。

 いくら確率が低いとしても、宝くじを購入した人の中に当選者がいることは事実である。だからそうした射幸性が嫌いだと思う者は購入しなければいいだけのことかも知れない。ただ最近は日本でもカジノを開設して経済振興を図ろうとか、新しい資金源を目的としてスポーツくじなどを販売するなど、賭博的な行為が少しずつ広がっていく風潮の見られるのが気がかりである。しかもこうした行為には依存症といった病弊が常に付きまとっていると言われている。それを人間の弱さだと割り切ってしまえるならそれまでのことかも知れないが、どこか納得できないものが残る。

 それともう一つ、この10億円ジャンボ宝くじには、宝くじを「夢」と表現していたときのような遊び心が少なくなってきたように思う。確かに私たちはお金持ちを「百万長者」、「億万長者」と呼び羨んでいた。だがそうした金額は、少なくとも私たちの頭で想像できる額だったのではないだろうか。

 私には宝くじ当選金が1億円になった平成元年ころから、日本人には金銭感覚が麻痺していったような気がしている。確かに「金は万能」であるかのように見える。「金で買えないものがある」とは昔から言われているけれど、現実に「金で買えない」ものなど、この世に存在しないようにさえ感じている。臓器売買や最先端の先進医療の選択やゴッドハンドと言われる世界一流の医師による診断などまで考慮するなら、恐らく命の問題ですら「金」で解決することだろう。ならば「金が万能である」ことを素直に信じて承認してしまうことのほうが、もしかしたら正しいのかも知れない。

 でも私には「金が万能」という信仰を持つ社会は、そうした仕組みを作り上げてきた私たちの一種の仮想なのではないかと思えるのである。「金が万能」と思わせる社会、金しか通用しないと思わせる社会、そうした社会構造を私たちは成長とか繁栄、進歩、進化、発展などと呼んできたのてはないだろうか。それはそうした構造を求めてきた私たちの、虚栄の残像なのではないだろうか。

 現行消費税8%が2年後に10%に引き上げられる。飲食料品などの増税は据え置くとの合意が自民党と公明党の間にあり、その範囲を生鮮食品に止めるか加工食品にまで広げるのかを巡って両党でもめているようである。パリで開催中のCOP21(別稿「自爆テロと神風」参照)も、最終日まで僅か数日といわれながら先進諸国が開発途上国にどこまで資金援助するかを巡って空中分解の途上にある。中東諸国の紛争で祖国を逃げ出した数百万人とも言われる人たちの受け入れを巡って、ヨーロッパ各国はこれ以上の財政負担に耐えられないとして拒否反応を示している。政治も経済も難民対策も、地球上がこぞって「お金」を中心に動いているかのように見える。いつの頃からこうした「お金」からでしか私たちは、「幸福」みたいな感情を持てなくなってしまったのだろうか。

 その金が10億円の宝くじとして、1枚300円、前後賞を含めるなら三枚で900円で売られている。この金額なら生活保護を受けている者やホームレス生活を続けている者にも、当選する確率が付与されるのである。スポーツ選手の契約金が何十億円という話も伝わってくる。お金があれば何でも出来るとする世の中を作ってしまった人々は、今やお金しか見えなくなってしまっている。そして私には10億円という金額が、夢であることを超えお金であることを超えて、妖怪になってしまっているような気さえしてきているのである。

 もちろん、その宝くじを買う予定はまるでないから、通勤のJR琴似駅の待合室で声を張上げている宝くじ売り子の声にに惑わされることもない。そして仮にその掛け声の中から10億円が発生したとしても、私には無関係ではあるのだが・・・。


                                     2015.11.12    佐々木利夫


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10億円ジャンボの夢